認識のさんぽ道

ルドルフ・シュタイナーの著作を楽しみ、 認識の小道散策へ出掛けます
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昨日、激しい雨のあとで空を見ると
二重の虹





たまたまこのページでこの虹を見た方…
そう、あなたに!
ダブルでよいことが起こりますからね~(^o^)/(^o^)/



視覚の反転



世界の見え方の違いは、目の構造による
哺乳類では二色で世界を見ているものが多いようだ
昆虫、ウニ、鳥類、みんなどのように世界を見ているのだろう

また、遠くにあるものが小さく見えるからといって、それが実際に小さいわけではないということは、脳のイメージングによって理解されているらしい

自分が当たり前にこうだと思っていたことが、人によっては全く異なっている場合には、イメージングの過程で違った情報処理が行われているということ

論理の組み立てを通過させてから、世界像を描くこともあれば、感情によって世界を認識することもある
論理、感情も、人によって様々だろう

私がどんな視覚を持っているのかは、私が何かを表現したことで客観視される

おしまい


妖精はどこにいるか?

たとえば、こう考えてみる

何が一番楽しい?

買うのが楽しい?

買わないのも楽しいかどうか?

世の中、お金無しでも楽しめますよ!
買ったりしない方が、かえって楽しいのです!

確かにそうかもしれない
でも、そんな風に正当化してみたり、義務感でやったりするなら、本当に楽しいのか自分を疑ってしまう

少なくともいくつかの実験は楽しく行うことが出来たんだけど

ちょっとやってみようかな?と思えて、タイミング良くことが運んで

でもそれに理屈をつけるなら、買ったも同然、価値が外付けされ、肝心の楽しさは
死んだようなもの

もし、価値が内側にあって生きているとしたら、それはどんなものだろう?

つまり、総括からずれているところが、多分一番楽しかったところだし、
その楽しさは生きていて、休みなく活動し続ける
普遍性をもし感じるとすれば、その活動性の中に含まれているもの、活動性そのものがそれなのである
全部買ってしまうと、その活動性を感じる機会が少なくなってしまうの
あるいは、予定したとおりに事が運ぶなら

内緒だけど、その活動性って妖精みたいなものじゃない?

おばさんなのにそんなこと言うの恥ずかしいけど

妖精がいるから、だから楽しいの
しかしそう言い切ってしまうなら、
それはもはや、レッテルを貼られたもの

常に逃げて行くもの
空虚のないところには現れないもの
閃きのようにかすかに感じられ、私が意思を向けないなら、何ものでもないもの
意思を向けたところで、人には伝え難いもの

おしまい

洋裁/散歩

母に教わりながら、娘の乗馬用ブレザーを作ってみています

衿の中は、こんな複雑なことになっているのですねー
母によると、これはハの字のように縫うのでハ刺しというそうで、こうすることで襟が自然に外側に反るように出来るのだそうです



母がやればもっと美しいのですが;^_^A
なんとか形になってきて、嬉しいな



夕方、ローリーと散歩に出ると、太陽の光が黄金色に斜めにさして、まるで世界が絵の中に入ってしまっているように美しかった

フォイエルバッハ 神と人間の本質 メモ

~「自由の哲学」序文に出てきた「人間の本質」とフォイエルバッハについて~ メモ

フォイエルバッハが神を人間の本質と言い出したのは当時にしては画期的なことだったのだろう

フォイエルバッハのこの考えを通って、また様々な考えが生まれたようだ

マルクスもフォイエルバッハに対しテーゼを打ち出しさらに唯物的実践へと向かったし、シュティルナーのような引きこもりがちな人もまた、そこから自分の考えを進めていったようだ



以下シュティルナー著「 唯一者とその所有 」より

我々は単に我々自身の本質を思い違えた だからそれを他界に求めたのだ
しかし今、神が我々の唯一の人間的本質であることがわかったとき、我々は再びそれを我々のものとして承認し、そして他界からこの世界にそれを引き戻さなければならない

精神である神に、フォイエルバッハは「我々の本質」という名を与える

「人間の本質は人間最高の実在である 今宗教によって最高の実在は、たしかに神と呼ばれている、そして客観的本質とみなされている しかし真実それは人間自身の本質にすぎない ゆえに世界史の回転期は以降最早神は人間に神として現れず、人間が神として現れるということである」byフォイエルバッハ


ここからのシュティルナーがまた面白い


これに対して我々は答える

最高の存在は実際人間の本質である 、しかしそれは、彼の本質であって、彼自身ではないのだから、我々がそれを彼以外に見て「神」としてそれを考察しても、あるいは彼のうちにそれを発見して、そしてそれを「人間の本質」あるいは「人間」と呼んでも、それが無形だということは依然として変わらない

自分は神でも人間でも、最高な本質でも、自分の本質でもない

だから大体において自分がその本質を自分の内にあると考えても外にみると考えてもまったく同一である

否、我々は実際いつでも最高実在を同時に内外両様の他界性として考える

なぜなら、「神の精神」は、キリスト教的見解によれば、「また我々の精神」である 、そして「我々のうちに住んでいる」、それは天にも我々のうちにも住む

哀れなる我々はその「住居」である、そしてフォイエルバッハが進んでその天上の住居を破壊し、そしてことごとくそれを我々に移そうとするなら、その時吾々(その地上の室内)は雑踏を極めるだろう

さてこの枝葉の議論の後、我々は精神の最初の創造、精神それ自身にかえる

精神は自分以外の或る物である

しかしこの他の物というのは何であるか?

2.憑かれた人々 へと続く


率直にも皮肉にも思える話し方が面白い

シュタイナーが自由の哲学の内容について、シュティルナーの考えを形を変えて述べたのだと言っていたというのだから、もしかしたらどこかでこの「神」や「人間の本質」が、シュタイナーの言う宇宙創造の先端である人間の認識力、思考能力と結びつくのだろうか?

おまけの写真
がんばるさつまいも (紫芋)
プロフィール

hasutama

Author:hasutama
神秘学徒hasutamaです・・なんてほんとうは、ただのおばさんです
シュタイナーの著作を読むこと、愛犬をかわいがること、音楽にかかわること、お庭仕事、友人とカフェでおしゃべりすることなどを楽しんでいます

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