認識のさんぽ道

ルドルフ・シュタイナーの著作を楽しみ、 認識の小道散策へ出掛けます
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チルチルの帽子

ぼんやりと独り言してみる
イメージを開放してみる

「自由の哲学」では、「意欲する自由」について考察するために
「動機の現れ方」に着目するらしかった

動機は、いったいどこから出現するのだろうか?

そもそも、動機がどこから出現するのか?という
その問いは、どこから出現するのだろう?

それらが自分の中からだとは言えない

今思っているのは、どのような動機も、
自分の内側には無いのではないか?ということ

私の場合、とにかく「受け身」で
自分の中には、特に何も無いと感じる

ただ、もしかしたら動機は、
私の「意識の物語」の中から発する・・のかも?という気はする

それで、その意識の物語は、自分の中にあるのか?というと、
それは自分の意識なのだから、自分の中だろうと思いながらも、
もしかしたら自分の意識は、
自分の中にあるとばかりも言えないのではないか?とも思われる

なぜかというと、意識が外側にあるような気がするときがある
というか・・意識は必ずしも内側ではなく、
外側とのやりとりが内側として把握されるのが
意識というものではないだろうか?
それって内側とか外側とか言うこと自体
意味あるのだろうか?

つまるところ、私の役割は、
「映す」ということではないだろうか?
映されるものは常に、外側にあるのではないか?

意識は、周波数のようなものだと思ってみるのはどうだろう?
周波数を共有できる人となら、ツーカーでお話できるが
はずれすぎていると、言葉も通じなくなる
周波数に合うものが、その周波数の場に集合
実体が現れる

意識は一つのサロンであって、
私の・・と、必ずしも言えないのだったりして?

意識のサロンの設定状態がどうなっているか
その調整権は私にあるかもしれない

だとすれば、どの場を選ぶのか
その調整能力がもしあるなら
そこには自由があるかもしれない

チルチルの帽子についていたダイアルみたい
あの帽子を、みんな本当はかぶっているのだろうか?














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Comment

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2012年08月30日(Thu) 14:47
お知らせ有難うございます(^^♪
編集
こちらこそ、いつも学ばせていただいていましたi-228

私はいつもこんな、ヘンテコな感じでやっていますのに、お言葉をいただいて光栄に思っています

またよかったらいつでも、コメントお寄せくださいませ 連絡いただければ嬉しく思いますi-80







2012年08月30日(Thu) 17:51












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プロフィール

hasutama

Author:hasutama
神秘学徒hasutamaです・・なんてほんとうは、ただのおばさんです
シュタイナーの著作を読むこと、愛犬をかわいがること、音楽にかかわること、お庭仕事、友人とカフェでおしゃべりすることなどを楽しんでいます

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