認識のさんぽ道

ルドルフ・シュタイナーの著作を楽しみ、 認識の小道散策へ出掛けます
TOPスポンサー広告 ≫ 文字は墓碑なのか?TOP読書 ≫ 文字は墓碑なのか?

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
スポンサー広告 | Comments (-) | Trackbacks (-)

文字は墓碑なのか?

頭の中である程度まとまったら・・
そう思っていてもなかなかまとまらないので

とりあえず気になっていることをメモしてみることに・・

本を読んでいて気になるところを発見すると
それが気になってきて先を読めなくなってしまいます

しばらく前にリービ英雄さんの「我的日本語」を読んでいて
↓ここから、読めなくなってしまった

第二章「万葉集」 ~文字以前の無意識の記憶~ 

折口信夫の「死者の書」など、日本の文学者が飛鳥から奈良への転換を見るときに、文字以前の感性という「前近代」があって、それがいわば「近代」である奈良時代において、記憶として蘇る、そういう見方がうかがえる。

文字を持つ以前に、より本質的なものがあったという感覚。

三島由紀夫の天皇論でも、天皇が文字によって書かれた時点で、すでに変容したということを暗示している。天皇の人間宣言は1945年ではなくて、「古事記」が書かれた時代にあった、という文化論。

こうした見方に触れたとき、ぼくは驚いた。

もしかすると、日本語にかかわっている人たちのなかに、文字以前の状態という、無意識の記憶が常にあるのではないか。すると、翻訳過程がその無意識を表現するある種の暴力、あるいはそれを葬る行為として自覚されたのではないか、と想像することがもできる。



ここがどうして気になるかというと・・

文字以前の状態→文字による表記 の過程を、
ある種の暴力的行為、初めにあったものを葬る行為と感じることに、
共感したからだと思う

今まで三島由紀夫さんに共感できると思ったことは無かったが、
天皇論には上記の意味においては興味がわいた

追記

リービさんの血の中にある論理的な感性が
日本の血にしみこんでいるものとらえるときには
日本人自身には自分すぎてわからなかったものを
普遍的なものとして、きちんととらえなおしてくれていると思う

(本来、西洋と東洋が出会う意味というのは、
こうした行為にあるのではないだろうか?)

「日本の本質的なもの」があったとして、
その価値を日本人が明らかにしないまま
日本人のことは日本人にしかわからないものとして
時に応じて自惚れてみたり、劣等感を抱いてみたり
情緒的になったり、いきりたったりするが
いったいそれが何なのか?と
その価値を普遍的なものとして
愛をもって明らかにしてみたことはあるのだろうか?
あいまいなのをいいことに
戦争などで命を駆り出すときの道具とされたりもするのは
かえってその価値に対して失礼なのではないかと思う

名前をつけることの暴力性は
その後それをその価値の本質的な意味を無視して
利用することが出来るようになってしまうことも含めて
考えることが出来る

はじめにあったものが埋葬されるというのは
その本来の生き生きとした命が
文字の中に固定されてしまうということだろう

文字はすでに墓碑であるから
それを感じることのできた時代には
文字はまず、歌や詩となった

折口信夫さんの本も読んでみたいと思います






関連記事

Comment













非公開コメントにする
Trackback

Trackback URL

プロフィール

hasutama

Author:hasutama
神秘学徒hasutamaです・・なんてほんとうは、ただのおばさんです
シュタイナーの著作を読むこと、愛犬をかわいがること、音楽にかかわること、お庭仕事、友人とカフェでおしゃべりすることなどを楽しんでいます

FC2カウンター
FC2カウンター
現在の閲覧者数:
Powered
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。