認識のさんぽ道

ルドルフ・シュタイナーの著作を楽しみ、 認識の小道散策へ出掛けます
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「日本人はなぜきつねにだまされなくなったのか」 講談社現代新書 内山節さん著

「日本人はなぜきつねにだまされなくなったのか」
講談社現代新書 内山節さん著
がとどいた

しばらく前になるが、いつもは車で行っている県立図書館まで
自転車で行ってみよう!と出かけたことがあった

途中、たくさんの畑や、人の暮らしや
商店街などを見つけて、やっぱりこういう風景を
すっ飛ばしてしまうことなのよね~
車で出かけるということは!なんて、
嬉しくなって、どんどんこいで
二時間近くたったころだろうか?
あら?おかしい!
やけに見覚えのある風景・・
もしや・・うちの近所じゃ~ん?

その日の朝日新聞の書評欄に
この本の紹介があるのを発見し
う~む さすが!私は神秘学徒だけあって
まだきつねにバカされる能力を温存しているのだ・・!

でも本の名前を「なぜ日本人はきつねにバカされる能力を失ったのか?」と
自分勝手におぼえていたため、
いくら探しても、その後この本にめぐり合うことが出来なくなっていた

読みたい本を見失う能力にまで、恵まれてしまっているのである

だが先日偶然に、エコビレッジのことを調べていたら
この著者のことが紹介されたブログ記事にめぐり合うことが出来た

なぜあの時、出会うことが出来なくて
今めぐり合うことが出来たのか?を
神秘学徒的に考えてみると

結論は簡単で、私自身があの時、
この著者の述べることの価値を
受け取るには、未熟過ぎたのだ

もしや、この全体がきつねのはからいなのでは?
きつねは未来を予見しているのだろうか?

見失うこと、再発見することの不思議さと、楽しさがある
そういえば、私が星野道夫さんに出会ったのも
「くま」のはからいだった(・・詳細ははぶくが

母によると、昔はみんなしょっちゅう、
きつねやたぬきにばかされていたのだそうだ
夜になっても村にもどってこない人をみんなで心配していると
次の日に馬糞だらけになって帰ってくる
どうしたの!?と聞くと
見知らぬ人に招かれてご馳走になっていたはずが
朝になって正気にもどると、実は馬糞を食べていたのだとか・・
そんな話を、母が身近に経験して知っているなんてこともびっくりしたな

著者のまえがきによれば
日本人がきつねにだまされなくなったのは1965年以降のことだそうだ
それ以降の高度経済成長、
核実験、原発推進の時期とも重なるのではないだろうか?
きつねにばかされる自分をとりもどすこと・・
それは革新的なことなのでないだろうか!?

きつねにばかされたことがある人、ぜひ経験談を教えてください!







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Comment

No title
編集
とんとん!お晩です~!^^

ふ~む。これ。面白いですねえ。
なんだか妙に納得。少し検索してみたんですよ。あるブログの記事から。
そのような社会変化の背景には、高度経済成長という「国民の歴史」があった。
国民の歴史は宿命的に発展の歴史として描かれると著者は指摘する。
「それは簡単な方法で達成される。現在の価値基準で過去を描けばよいのである。
たとえば現在の社会には経済力、経済の発展という価値基準がある。
この基準にしたがって過去を描けば、過去は経済力が低位な社会であり、
停滞した社会としてとらえられる。」
それを経済力を科学技術、人権や市民社会という基準でおきかえてもおなじこと。
私たちは遅れた社会から進んだ社会へと進歩発展してきたという物語を
信じている。キツネや死者と対話する世界は取り残されて崩壊していった。


日本人が狐に騙されなくなった1965年以降。それと高度経済成長、核実験、
公害、そして原発…。この関係。妙に納得納得です。
福島の事故が起きた後も、多くの人が、『それでもやっぱり原発は必要でしょう。
だって、電気のない生活は考えられませんからね。今更、昭和の、洗濯機も
テレビも炊飯器もエアコンもない、ランプとかまどに薪をくべてご飯炊く
時代には戻れないでしょ』というような物言いをするのを聞きました。
『それ、違うんだがなあ…』と思いながら、私、反論しないでいた。
だってね、事故前、原発に頼っていた電気は30%。
『原発がない=電気が全く使えない』って考えはおかしいんです。
70%は原発なくても電気あるんですから。この夏、原発がなくても電気は
大丈夫って、照明もとい!証明出来ましたものね。
だいぶ世の中そのことがわかってきたようですが、それでもまだ、そういう
物言いをする人がいます。『電気がなくては困るでしょ』って。
『原発がない=電気がない=昭和30年代くらいの、不便で非衛生な生活』という図式。
なんでそういう極端な図式が生まれるかなあ。…ずうっとそのことが
歯がゆくもあり、腑に落ちなかったんですが、hasutamaさんのこの本の
ご紹介見て、すとん!と腑に落ちました!^^
これはもう直感です!そうなんだ~!って。
そうだよ。日本人は、原発などをとり入れて便利な生活を得た代わりに、
狐に化かされる、というようなある精神の豊かさを失ったんだよ~!って。
そしてね。原発はいる、という人が、『原発ない=電気がない=昭和の
不便な原始的な生活』と論理の飛躍をするのは。
実はそう考える短絡的な、言っては悪いけれど歴史認識に鈍感な人々は、
日本人が失ってしまったものの大きさを考えないんですね。 ただ、経済の発展とか
生活の快適さとか便利さとかの物差しでしかものを見ないから、
昭和30年代の確かにトイレはぽっとん便所で蝿が多く発生し
ご飯は薪で炊くといった生活から、現在までの間に、本当はありとあらゆる変化が
徐々に徐々に行われてきたことを見ようとしない。そしてそれは自分たち自身が
良くも悪くも選択してきた道なのだ、ということを無視しちゃうのだな、と。
そして、経済の発展成長こそが唯一の価値、と思っているから、
原発ない=昭和の不便な生活に逆戻り、という極端な図式を描くのだな、と。

その間に日本人が失った豊かな精神文化は、どうしてくれるんじゃい!と言いたいです。
う~む。hasutama さん。この記事、私にとっても新鮮な驚きです!
ありがとう~♪
長く書いてごめんなさいね。でも、その感動お伝えしたかったから。^^
なんかうまく書けてない気がするけど!
2011年12月21日(Wed) 23:27
彼岸花さんへ(^^
編集
コンばんわ!i-100

とんとん!って、受けましたよ そのノックで少し我に返り周りを見回したりして(笑)

この本は、読んでみると歴史認識の話がいっぱい出てきました

「国」「中央」から与えられた「発展」の観点で過去を物語れば、過去は劣ったものとなる
そもそも歴史とは、「発展」の物語として描かれやすい 西欧的な、神のもとに進歩していく人間という見方は、それだってひとつのローカルな観点なんじゃないか?等々・・この著者の視点は面白いです

人は主観的でないと思い込むことは出来ても、主観的であることから逃れることは出来ない、と書いているのも面白く思いました

国にばかされるほうが、キツネにばかされるよりも優れているのか・・もし主観的でないことが不可能なら、せめてどのようなスタンスで主観するのかを意識的にしてみてはどうかと思います 

松居直さんは、小渕首相の頃に招かれた国主催の話し合いの席で、国語教育がテーマとなった時に「国語」という言い方はおかしい、私は言葉を国からもらったのではなく母からもらったのだとおっしゃったそうです 母が言葉と命を授けてくれた、それを教えない教育とは何だ?ということで・・

うーん うまく言えませんけれど、自分がどんな前提でものを認識しているか?は、よっぽど注意していないとわからないものだと思います 学校で習った国語や歴史でさえも、一度はどのような観点から書かれたものだったのか疑ってみなければ、自分が当たり前と思っているものへの刷り込みに気がつかないのでしょうね

自分の主観を、単なる思い違いレベルの次元で大切にしてみることで見えてくるものの面白さに、はまってしまう私ですi-179
2011年12月23日(Fri) 23:00












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プロフィール

hasutama

Author:hasutama
神秘学徒hasutamaです・・なんてほんとうは、ただのおばさんです
シュタイナーの著作を読むこと、愛犬をかわいがること、音楽にかかわること、お庭仕事、友人とカフェでおしゃべりすることなどを楽しんでいます

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