認識のさんぽ道

ルドルフ・シュタイナーの著作を楽しみ、 認識の小道散策へ出掛けます
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途中まで読んだ「悲の器」 / ひとりごと

先日、また歌のレッスンで
先生が熱心に教えてくださっているのに
途中で目が回って座り込んでしまい
何か調子が悪いことに気がつきました

音が頭蓋骨に響きすぎて
頭がボワーンとなって
気持ち悪くなってしまいます

家にいるときは特に問題ないですが
メトロノームの音が
ガーンガーンと頭に響きます

昨日、これではいけないと
意を決して耳鼻科に出かけたのですが
検査機器がたりないとのことで
大きな病院に改めて行くことに・・

生活でそれほど困っているわけでもないですが
気になります

ともあれ・・病院の待ち時間に、本が読めるのが嬉しいです
彼岸花さんにご紹介いただいた「悲の器」を読んでいまーす

歌うこと、読むこと・・

読むのは好きだけど、歌うのは・・
音を出すってやっぱり苦痛
それでこんなわけのわからない症状に?
と、思わないでもありません

なぜ、悲しいときにも大きな声で歌い上げることができるのか
イタリア歌曲はやはり不思議です
イタリア歌曲に息づく生命の溌剌とした躍動
でもそれって、きっと何かに対して「存在してもいい」っていう
ものすごい信頼感を持っているからこそなのではないでしょうか
例えばマリア様とか?

そういえば、「悲の器」の主人公は生命の躍動を欠いています
まだ半分しか読んでいないけど・・
この主人公は、
法や社会的理論の世界に、努力と共に自分を確立しているつもりで、
どんな世間の荒波にも、
その慎重で理論的な?生き方は、冷静さを保って難攻不落に見えます

ところが、彼は、はじめは自分の家庭に、それから自分の内部にこそ
非論理的ゆらぎを抱えていることに、気がつき始めます

ちょっとした印象・・臭いとか、気配とか、
自分の論理からはみ出すものたちに
存在の根底を、少しずつ揺さぶられていき
ついには、ふり幅が大きくなって
生命への貪りに我を忘れ、
妖怪じみた、影の自分を息づかせていきます

冒頭の「往生要集」からの引用のとおり、
彼は、周囲の人が彼の痛ましさに感じる悲哀、慈愛を
「悲」として要求する器であるように思われてきます~
何しろ頑として、「器」でしかあろうとしないので
なぜか周りは、彼の排除した分まで「悲」をたくさん受け持つ感じです
これもしかしたら、今の日本の「官僚」と「市民」にも
あてはまるかも?

「器」であるよりは、「悲」であれ
そうも思いますけど

「悲」ではなくて、ただの「心」がなぜ無い?

心で、思考と存在(肉体)を結ぼうとしないから
思考は思考で
存在は存在で
別々な行動をとってしまったのではないかしら?

つきなみですが、やっぱバランスかな
でもそんなバランスを確立することは
すごく難しいことなのだろうな

心が、そのようなつながりの場となるには、
仏教で言うなら、諦念→慈悲
キリスト教で言うなら 原罪、懺悔→愛
のようなスタンスがいるのかな?

頭蓋骨に響く音が、めまいを起こさせることは
これと何か関係ある?

音は本来、心で受け止めたかったものだけど・・
なぜ頭に響いてしまうんでしょう?

音はすでに存在の始まりで
存在しようとする意志なのではないだろうか?

摩擦が音を生み出すことについて
その原理を、はっきり受け止めて

それを頭で認識するのではなく
心で聞くことを
もっと習得しなくてはいけない?

相手の言っている内容を峻別しようとするよりも
その声の中から流れてくるものを受け止める
っと、シュタイナーが言っていたのは、このようなことかも

相手の言っている内容より
声から流れ来るものに気をつけるなんて
失礼なんじゃない?と思っていたけれど

相手の存在の意志を受け止めることが出来る自分の場所は
やはり頭ではないのかもしれない?
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Comment

自然の力
編集
hasutamaさん、こんばんは^^

hasutamaさん、持病をお持ちなんですか。気を
つけてくださいね。肉体を正常に保つには、養生
の方法があるようですが。流れは気ですから、
心から発せられたエネルギーは言葉より正確だ
と思います。

イエスも釈迦も空海も皆、自然のなかから真理を
得ました。都会生活は、自然がありませんから
時々山に登られたり、自然に触れ感じる機会を
増やされたら病も回復することもあると思います。
養生してくださいね^^
2011年10月13日(Thu) 21:47
No title
編集
こんばんは。
hasutama さん。『悲の器』読んでらっしゃるのですね。どうでしょう…?
人間というものを、『悲の器』に例えた『往生要集』の言葉は
すばらしいけれど、小説自体を hasutama さんにお勧めしたいか、
というと、そうでもなかったんです。今頃ごめんなさいね。i-201
ドロドロした話ですからね。でも、その当時の知識人のある一つのタイプ、
というものは表しているのかもしれません。彼のまわりの人間模様とかも…。
この高橋和巳を大学生たちが一種のバイブルみたいに読んでたんです。
…今考えると、なんと重いのか!と思いますね。
松本清張の『砂の器』(あ!これも『器』だ!)が私は大好きなんですが、
それを現代のドラマに置き換えても、筋立てに必然性がなくなってしまうように、
高橋和巳も学生運動が盛んだった時代の、その雰囲気の中で読んだから、
あれほどの人気があったのであって、今読めば、どうですか?
共感できるところありますか?
でもね、高橋和巳という人自身は、いかにも京都大学のひとらしい、
香りのある人でしたね。『高橋和巳 画像』で検索すると写真が
たくさん出てきますが、わずか37歳で亡くなってしまったひと…
なんと老成した、考え深い、美しい顔だろう!と思ってしまいます。
私はね、小出裕章さんを見ると、なぜか高橋和巳さんを連想して
しまうんです。同じ京都大学だから、というわけでもないのでしょうが…。
小出さんもこの高橋和巳さんも、『悲』をこころに抱えているひと、
という感じがします。大江健三郎さんもそうですけれどね。
でも、大江さんはまた、違う悲、という感じが。
日本が戦争に負けて、焼け野原からたちあがって行った時代…
経済がだんだん豊かになっていくと同時に、その故にあちこちで
起こったひどい公害問題…世の歪み…。
アメリカの影の支配構造…それと組んでのし上がって行った人々…
それに直感的におかしいと立ち向かっていった学生たち…そんな時代。
その頃、ちょろちょろっといつの間にか、日本に原発も導入されたんですね。

そう考えれば、高橋和巳は決して古くないかも、ですね…。
あの時代の暗さ。日本の暗部。…それって、今も脈々と続いているのかも。
ただ、お笑い番組を垂れ流すテレビなどの後ろに、隠れているだけなのかも。

今のひとは、どんな『器』のありようをしているのでしょうか。
容積は変わらないのかもしれないけれど、なんだか浅くなって、
悲しみもすぐさらさらと、流れ出ていくのかもしれませんね。
肉体は、ひりひりと痛みを感じているようなんだけれどなあ!
こころは痛みを認めない!と必死で武装している感じもします。
ごめんなさい!hasutama さんの文に添ってないかも!i-201

私はね、メニエール症というんでしょうか。耳の平衡感覚が狂って、
先日はすごい目眩で4日間ほど苦しんでいました。
どうぞ、お大事になさってくださいね。
悲しみが、病を呼びよせるといけませんから。

hasutama さん。…呼んでみただけよ(笑)。
2011年10月13日(Thu) 23:16
すー様 ♪
編集
お心遣い有難うございます

ほんとにそうですね!
皮肉なのですが
原発事故以来、いつもならリラックスできていた自然に
逆に緊張を感じてしまうので
神経が、混乱しているのかなと思います

ここは、この駅からが田舎と言われているところで
少しは緑があるほうかと思いますが
自然を心から楽しむには、ずっと遠くまで行かなければ・・
でもなんとなく色々なことが気になって
結局何事も楽しみにくくなっています

これも自然に与えられた試練かな・・?i-229





2011年10月13日(Thu) 23:29
彼岸花さん(^^
編集
お言葉有難うございますi-228

声でなくても、コメントからも皆さんの魂のあたたかさが流れてきます

「悲の器」は読みごたえがあり面白いです! 表現しきることで、暗い話ですが逆にさわやかにも思われます 主人公が不快に思いつつ求めてしまう生命の生暖かさ、踏みにじられながらも折り合いをつけざるを得ない強大な国の力、それから彼の理論などなど・・内容は現代にも通じスリリングですi-183「器」と「悲」の役割分担(?)がどうなっているのか興味を持ったのですが、まだわからないままですi-201

考えてみれば、地球の重力の方向性があってはじめて、人は安定して立っているんですね・・ すー様も言って下さるように、自然に触れ、地球の上で、地球のリズムで生きている有難さを実感し、たとえ少々放射能が漂ってきても、人間は自然の内部にいる以外ないことを謙虚に受け止めてみようかしら
きっと、宇宙を含めた自然は、人間の想像以上に、人間にもたらしてくれているものがあって・・

だから、存在を与えられていることを素直に感謝する気持ちから、声の振動を世界に捧げるつもりで歌えればいいのかな・・
理屈ではなく、何も考えなくても、心から声があふれるような時ってありますね 
私も言いたいです↓

彼岸花さあぁぁぁぁ~ん!!(笑)大門先生のまね・・

(子供のころ、「遊びましょ!」とお友達の家の前で節をつけて名まえを呼んだことを、懐かしく思い出しますi-239




 



 

2011年10月14日(Fri) 09:44
No title
編集
こんにちは。
なるほど~!と感心しながら読まさせて戴きました。

>>相手の存在の意志を受け止めることが出来る自分の場所は
>>やはり頭ではないのかもしれない?
言葉を聴くのは耳。言語として認知し、分析するのは脳。
でも意思は、心で受け止めるものだと、僕は思います。
2011年10月16日(Sun) 11:40
やしま様へ
編集
コメント有難うございます!

こんなめんどくさい話を、読んでいただいてすみませんi-201
明快に書いてくださって、イメージがわいてきます

言葉としての音→耳で感知 
言葉の内容→脳で分析 
音の響きに含まれる意志→心で受け止める

心ってすごいですね 受け止めるなんて!

音を存在の意思として心で受け止めるとき、本当に聞いたことになるのかな・・むむ、hear heart が似ているの、関係あるかしら?
あ~もう興味は尽きませんi-229

こんな調子の私ですが、よかったらまた是非おいで下さいませ♪




2011年10月16日(Sun) 12:53
返礼
編集
>>音を存在
無視して受け流すコトも出来ますし、ヘッドフォンで塞ぐ事も可能ですよね?
雑音とか、聞きたくない小言とか…。

誰かの心で受け止めている時は、真の意味で、聞いて(≒効いて)いると思います。

またお伺いしますね。
2011年10月16日(Sun) 13:52












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プロフィール

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Author:hasutama
神秘学徒hasutamaです・・なんてほんとうは、ただのおばさんです
シュタイナーの著作を読むこと、愛犬をかわいがること、音楽にかかわること、お庭仕事、友人とカフェでおしゃべりすることなどを楽しんでいます

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