認識のさんぽ道

ルドルフ・シュタイナーの著作を楽しみ、 認識の小道散策へ出掛けます
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言葉の世界=霊の世界?

ヘッセと詩霊のこと考えていたら、彼の詩を思い出した


  言 葉  
       
詩人がこちら側に 公衆も住んでいる
なじみの日常生活の側にとどまっているときには
すべての言葉の貧困が際限なく彼を苦しめる

そして詩人として生きることは
彼にとって茨の人生のように思われる

しかし彼があちら側に
魂の国にいると 言葉がいたるところから
次々と魔法のように彼の心に流れ込み
星辰は鳴り響き 山々は微笑む
そして世界は完全なもので
どんな言葉も文字も不自由することがなく
すべてを表現することができ
すべてが鳴り響き
一切が開放される神の言語そのものなのである



詩人でなくても、もし言葉を愛する人なら
このことは実感できるのではないだろうか

シュタイナーは、この前半と後半の二つの世界を隔てている壁の
不思議な秘密を解く鍵を持っていて
冷静に、自由に行き来することの出来る人で
後半の世界の奥深くまで自由に分け入っていくこと
後半の世界を、前半の世界に流れ込ませ美しくすること
等々を延々と語って
みんなにも、その壁を通り抜ける方法を教えてくれようとする

それは、今までは特殊な人にしか出来ないと思われてきたことで
時には、精神の異常をきたしたりする代償を伴いながら
天才による芸術という形でしか、なされていなかったのではないだろうか
また、枠付けされた方法としては宗教という道もある

しかしシュタイナーは「自我」を無くすのではなく
思考を通じて研ぎ澄まされたものにすることで
それを伴って冷静に
あちら側の世界に行けるのだと教えてくれる

・・合っているのだろうか?
今の自分の不完全な理解で持っている印象はこんな感じです

※ 題に書いた「言葉」は、「はじめにあった言葉」、本質的な言葉・・みたいな意味で書いてみました



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Comment

こんにちは。
編集
hasutamaさん、こんにちは。

>しかしシュタイナーは「自我」を無くすのではなく
>思考を通じて研ぎ澄まされたものにすることで
>それを伴って冷静に
>あちら側の世界に行けるのだと教えてくれる

そう、ここなんですよね、私がシュタイナーに一番興味を抱いたのは・・・。

私は自我を終わらせることと、自我を無くすことはまったく意味の異なることだと思っています。自我があってはあちら世界に通じることができないから、自我を無くしましょうということではないと思うのですね。

私は、「自我を知る」ということではないだろうかと思うのです。そして、思考を辞めなければならないという言葉を見かけたりもするのですが、その思考についてもシュタイナーは「魂の思考」という表現をどこかで用いていたように記憶していまして、それは自我の思考ではないということなのだろうと感じました。

その魂の思考に至れるように、自我、感情、思考を意志でもって育てていく・・・、意識魂まで育てていくところから、更に新たな扉が開かれていくのではないかと感じていたりしています。だから、すべて必要なんだということなのだろうと思っています。

そして、そこには自分を見つめる内的静観も含まれていて、神秘世界への参入は誰もが可能であるけれど、それにはそこに参入しようとする湧き上がる思い(超自発的)があるからで、その思いがあるからこそ、参入を臨む訳であり、その参入においてはあらゆる秩序(順序)があり、とても時間のかかることであるとシュタイナーは述べていたことを記憶しています。

何処まで行っても自分はあるのだろうと思います。
あらゆることを体験する意味で自我が与えられたのだとしたら、その自我が当初の神の計画とは異なる、不完全な一人歩きをして、まるで自分が神であるかのように錯覚していることが問題というか、あちらの世界、こちらの世界を隔てる原因となってしまっているのではないだろうか?とシュタイナーの書籍を読むことで特に感じたりしていました。

地球紀の進化の出発点で、ルツィフェルの影響により、肉体、自我、エーテル体、アストラル体という人間本性の4つの部分の結びつきに無秩序が生じていて、本来の正常な結びつきが失われたまま私は生きているということは、神の計画に適した熟成された魂となる前の、まるで早産された状態であるということで・・・。

その無秩序が自我を「自我的」にさせているのだとしたら、今のこの世を生きる私たちが、「超自我的」に育ってしまった所以が見出せるような気がします。

シュタイナーが誘うように、驚き、学んだことに対する畏敬の感情、宇宙現象との賢明な一致の感情、そして帰依、こうした事柄を、精力的な、忍耐強い自己教育(育成)によって自らのものにするならば、自我は(神の計画通りの)正常な在り方を可能にするのだろうということで・・・。

根源的なものに結びつくには、それなりの理由と順序が必要なのだということで、hasutamaさんが言われるように、シュタイナーはその壁を通り抜ける方法を明確に教えてくれているのだと私も感じています。

なんだか沢山書いてしまってすいません。
私が読んで学んだ中からの内容なのでズレズレ感があったらすいません。自我について考えるためにシュタイナーを必要としている自分でもあったので、とてもタイムリーな話題だったために、こんもり書いてしまいました。

いつもありがとうございます。

2010年08月29日(Sun) 19:33
嬉しいです♪
編集
いっぱい言葉を尽くしてくださり、とても嬉しいです!

今日ショッピングモールに出かけ、フードコーナーで、タピオカ入りキャラメルコーヒーフロートというのを食べまして・・おー・・ゴージャス!と思いましたけれども、そんなものより房さんのコメントこんもりのほうが、ずっとゴージャスに感じますよ~♪

読ませていただいて、色々なイメージがわきました
自分がどう感じているかというのは、あまりに当たり前になっているので気がつかないままですが、言葉をかけてくださる方に恵まれると、そのかたの感じていることを理解する手がかりになると同時に、そうだ、自分はこう感じているのだったと、見つける機会をいただけて・・だから素晴らしい友人を持てるというのは、本当に有難いことだと感じます

おそらく感じ方の違いがあるからこそ、それが出来るのかなとも思います
違いを恐れず、お互いにとって楽しい発見のあるお付き合いが出来るといいですよね!

私がちょっと思ったのは、たとえば何がシュタイナーの言っていることに合致しているか、自我をどうとらえるのが正しいかといったことを、考えてみるのも必要かもしれませんが、私にとって一番興味があるのは、この、房さんが丁寧なコメントを下さったということ、その大切な機会を、どんなふうに生かせるか?・・というか、その中では、どんなことが見つけられることを待っているのか・・みたいなことです

恥ずかしい話ですが私は、多分、真実や善や神には、それほど直接興味を持っているわけではないのかもしれません どうしてなのか、それはまたゆっくり考えてみたいことです・・

と言うか・・何と言っていいのか、私が神や善や真実を発見するとしたら、これはお世辞で言っているのではなくて・・たとえば房さんの下さったコメントの中に、それを感じる気がしてしまいます
あ~うまく言えないのですが・・房さんの真剣さとか、まっすぐなお心、いろいろなものが流れ込んで、私に力を下さっていますから・・て、こんなこと言うの、何かあやしいですかね・・(汗)

でもって、色々思ったことはあって、もっと長くなってしまいそうなので・・記事の中でコメント下さったことに関して、自分の中で浮かんだことを書いてみようと思います 整理がつかず、すぐにここに書けなくてごめんなさい!

ではでは・・
2010年08月29日(Sun) 20:38












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プロフィール

hasutama

Author:hasutama
神秘学徒hasutamaです・・なんてほんとうは、ただのおばさんです
シュタイナーの著作を読むこと、愛犬をかわいがること、音楽にかかわること、お庭仕事、友人とカフェでおしゃべりすることなどを楽しんでいます

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