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フォイエルバッハ 神と人間の本質 メモ

~「自由の哲学」序文に出てきた「人間の本質」とフォイエルバッハについて~ メモ

フォイエルバッハが神を人間の本質と言い出したのは当時にしては画期的なことだったのだろう

フォイエルバッハのこの考えを通って、また様々な考えが生まれたようだ

マルクスもフォイエルバッハに対しテーゼを打ち出しさらに唯物的実践へと向かったし、シュティルナーのような引きこもりがちな人もまた、そこから自分の考えを進めていったようだ



以下シュティルナー著「 唯一者とその所有 」より

我々は単に我々自身の本質を思い違えた だからそれを他界に求めたのだ
しかし今、神が我々の唯一の人間的本質であることがわかったとき、我々は再びそれを我々のものとして承認し、そして他界からこの世界にそれを引き戻さなければならない

精神である神に、フォイエルバッハは「我々の本質」という名を与える

「人間の本質は人間最高の実在である 今宗教によって最高の実在は、たしかに神と呼ばれている、そして客観的本質とみなされている しかし真実それは人間自身の本質にすぎない ゆえに世界史の回転期は以降最早神は人間に神として現れず、人間が神として現れるということである」byフォイエルバッハ


ここからのシュティルナーがまた面白い


これに対して我々は答える

最高の存在は実際人間の本質である 、しかしそれは、彼の本質であって、彼自身ではないのだから、我々がそれを彼以外に見て「神」としてそれを考察しても、あるいは彼のうちにそれを発見して、そしてそれを「人間の本質」あるいは「人間」と呼んでも、それが無形だということは依然として変わらない

自分は神でも人間でも、最高な本質でも、自分の本質でもない

だから大体において自分がその本質を自分の内にあると考えても外にみると考えてもまったく同一である

否、我々は実際いつでも最高実在を同時に内外両様の他界性として考える

なぜなら、「神の精神」は、キリスト教的見解によれば、「また我々の精神」である 、そして「我々のうちに住んでいる」、それは天にも我々のうちにも住む

哀れなる我々はその「住居」である、そしてフォイエルバッハが進んでその天上の住居を破壊し、そしてことごとくそれを我々に移そうとするなら、その時吾々(その地上の室内)は雑踏を極めるだろう

さてこの枝葉の議論の後、我々は精神の最初の創造、精神それ自身にかえる

精神は自分以外の或る物である

しかしこの他の物というのは何であるか?

2.憑かれた人々 へと続く


率直にも皮肉にも思える話し方が面白い

シュタイナーが自由の哲学の内容について、シュティルナーの考えを形を変えて述べたのだと言っていたというのだから、もしかしたらどこかでこの「神」や「人間の本質」が、シュタイナーの言う宇宙創造の先端である人間の認識力、思考能力と結びつくのだろうか?

おまけの写真
がんばるさつまいも (紫芋)
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神秘学徒hasutamaです・・なんてほんとうは、ただのおばさんです
シュタイナーの著作を読むこと、愛犬をかわいがること、音楽にかかわること、お庭仕事、友人とカフェでおしゃべりすることなどを楽しんでいます

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