認識のさんぽ道

ルドルフ・シュタイナーの著作を楽しみ、 認識の小道散策へ出掛けます
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野生農

私の畑の場合…
自然農と言うのも申し訳ないような
緑のカオスとしか言えない
ごちゃごちゃ状態である

草や、零れ種からのお花、自生しはじめたハーブや野菜たちが
それぞれ勝手に、暮らしを営んでくれている

さしずめ私は、たまにやってきて居住者同士のもめごとをおさめる大家みたいな?
自然農というより、自生農?野生農?あるいは、ほんとになんかとれるんかのう?などと言ったほうが相応しいのである
だったら、たまにパトロールにやってくる野生保護区監察官かしら私

夏のジャングル状態ではシロザが猛威をふるい
力強い太陽のエネルギーが、いかに地球上に物体化するかを、まざまざと見せつけてくれた
シロザは茎が倒れると着地点からはまた根を生やすことが出来る
いったい茎→根のシグナルはどのように発せられるのか
シロザの茎は太く、杖にも出来るんだって
年老いて畑に立ち、シロザの茎を杖にしているのもおしゃれ…などと妄想する

シロザの猛威を横目でながめながら、サツマイモやカボチャ、キュウリ、へちま、インゲンなどの蔓は、私たちったら、ただ茎や葉を茂らすだけの存在ではなくて、人間が喜ぶような実をつける使命を受けたぶんだけシロザにあるような繁殖力は無いんだけど…と訴えるわけで、人間であるところの私が登場し、ちょっと下草を刈ってみたところ、なんとかうちで食べる分ぐらいの収穫物を成らせてくれた

愛玩犬の場合、野生の力強さを投げ打って、私にフレンドリーな存在となってくれている
そのことで人間にはある程度の義務や責任が発生する

だからと言って、野生の動物を全て駆逐するなんてさびしいよね
なにしろ野生の動物は、その力強さ、美しさで、人間に畏敬の念を呼び起こしてくれる

小さな畑の中にも野生保護区を設け、モグラとか虫とか微生物とかの楽園を探検する楽しみを確保しよう

カメムシだけとっても、たくさんのデザインがあり、植物とのコラボでハッとするような美しい情景を作り出してくれる

夏のドラマを反芻しつつ…
秋の作業もしなくちゃと思えるようになったのは進歩である

玉ねぎの種を蒔いてみた

落花生の落下部隊

この畑で種を採った子の発芽

自生し始めたコスモス
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ルシファーとかキリスト衝動とか

ハンナ・アーレントが
「何も知ろうとしない人たちの罪は
大きい」
と言ったことをネットで見かけて
そうだ!と思ったり
いやしかし…と思ったりする

同じ時間を生きているようでも、
生きている心の(?)場は
別世界のように違う

何かについての判断が
人を分け隔てる
深淵を覗き込み
いったいどうやったら
橋をかけることが出来るのだろう?
と思う

それで思い出したのは

シュタイナーのキリストについての講義で、こんなエピソードがあった

キリストは一時期エッセネ派の隠遁的な修行集団の中で過ごしていた

彼が一般の人が暮らす場所に近づいた折、その入り口におぞましいものを見た

入り口の門には驚くほどたくさんのルシファー(悪魔の一種)がへばりついており

なぜそんなにたくさんなのかというと、
キリストたちが純粋な善いものだけを集めて暮らそうとすればするほど、ルシファーたちはそれ以外の場所に結集しようとするからなのである

そのことに気付いたキリストは愕然とし、エッセネ派を離れ人々の中に入って行った

説明が下手だけど、そんな主旨だった

このイメージは
その後のキリストも含め恐ろしい気がする

多数決で何かが決まるなら
エッセネ派は少ないから
ルシファーが世界を支配してしまう
ルシファーは、
この世の力と数の論理そのものなのかも

シュタイナーの言うキリスト衝動て
いったいどういうものなのだろう
キリスト派じゃなくても
共感出来るものだといいけど










イリイチ メモ

経済の発展=開発はまた、やがて、商品を買うほかなくなることをも意味した。

なぜなら、商品なしで暮らすことのできる条件が、自然的・社会的・文化的な環境から消滅したからである。

商品やサーヴィスを買うことができない人々には、環境はもはや利用しえないものとなった。

例をあげてみよう。通りはかつてはおもに人々のためにあった。通りはそこで人々がおとなに成長する場所であって、そこで学んだことをとおして大部分の若者は、人生に立ち向かうことができた。

その後、通りは乗物での交通のためにまっすぐに作り直された。通りのこの変化は、学校がたくさん建てられて、通りから追い出されたヤングたちを収容するようになるはるか以前に起こった。

私はこの過程を「貧困の現代化」と呼んだ。なぜなら、現代社会では、市場に接近する機会のもっとも少ない者ほど、共用環境(コモンズ)についての利用上の価値に最も近づけない仕組みになっているからである。

私はこれを、「ニーズの充足にたいする、商品による徹底した独占」と規定した。

プロフィール

hasutama

Author:hasutama
神秘学徒hasutamaです・・なんてほんとうは、ただのおばさんです
シュタイナーの著作を読むこと、愛犬をかわいがること、音楽にかかわること、お庭仕事、友人とカフェでおしゃべりすることなどを楽しんでいます

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