認識のさんぽ道

ルドルフ・シュタイナーの著作を楽しみ、 認識の小道散策へ出掛けます
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イメージの消化

気をつけているので目眩はおさまっている

渦巻きのイメージが目眩を連れてきて、
イメージは対象ではなく
生きるものになっている
…のだとして

変な話かもしれないが…
渦巻きだけでなく、いつも何かしらのイメージが与えられ、
その中に生きる、それを通じて生きる、
ことが常態化している
ということを、今までよりもはっきりさせたくなった

自分がどんなふうに「考え」を行っているかを観察する試み

与えられたイメージが常に鍵のようなものになって、私が考えるというよりイメージが私に考えることを要求してくるとでもいったほうが適切なのではないか?と思われる

これ狂気じみている
でも意識してみると、そうなのである

もしイメージの消化がうまくいかないと、おそらくそのイメージは停滞し続けて、私に影響を及ぼし続ける
もし消化すれば、何らかの栄養分となる
思考とは、咀嚼なのだろうか?
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近況

またバラ園のアルバイトが忙しくなり、家族のことでも色々とあって、思うようにシュタイナー研究が進まない…>_<…

ま、でもそれはそれでいいのかなと思う
そういう、何かが進まない時間もまた楽しい
逆に、進みすぎるのは良くない
あまり没頭すると広がらなくなるというか、面白くならない
広がりすぎて何をやろうとしていたのかわからなくなってしまう頃になって、また思い出してみることが出来るならそうするし
出来なかったならそのまま忘れ去ってしまうのだろう
それならそれでいいのである
そこからまた私は戻るのかどうか?
やろうとしたことに、どれだけ求心力があるのかがわかるだろうし
もしそれがあるなら、漁の網のように中心に向かって経験を生かせるかもしれない

とはいえ、期限のあることは頑張るしかない
娘のブレザーは、大会が真近なので焦ったけれど、やっと仕上がったo(^▽^)o





ほとんどは母だが、私も参加して、なんとか間に合ってよかったな

あ、でももしかしたら娘が、こんなの嫌!と言うかもしれない
そしたら、それはそれで仕方が無い…そんな風に私なら思ってしまいそう
着てくれたら嬉しいな
でも、娘が納得出来るのが一番o(^▽^)o

製作過程は大変面白かったので、出来れば、忘れないうちにもう一着ブレザーを作ってみたい

「哄笑するエゴイスト マックス・シュティルナー」読書メモ

普遍と特殊との関係をめぐる議論

1 個別特殊性の上位に立ちそれらを統一的に把握しようとする普遍主義的視点

2 具体的状況に即応した妥当性を要求する個別具体的な視点

1の倫理学の古典的典拠としてカントの合理主義哲学が批判されることが多くなっている

形式的な普遍妥当性を持つ道徳法則の支配が個人の感性や傾向性を抑圧

ナチズム、スターリニズム が

自然抑圧的な文明過程のひとつの帰結であるとさえ論じられる

理性的自律思想の旗色は悪く、理性という言葉はいまではむしろ否定的なニュアンスをこめて語られてさえいる

…つづく



竹細工

マックス・シュティルナーの近代合理主義批判/住吉雅美著 メモ

以下 ヘーゲル氏の考え

近代国家とは具体的自由の現実体である

具体的自由とは、

個体人格の特殊的利益が普遍的なものの利益へと移行し、

普遍的利益を自らの究極的価値とみなし、

普遍性と一体化する状態

それゆえ、このような意味での自由の現実化であるとする国家にあっては、主観性の原理が極点にまで完成されながら、同時にそれが普遍的で実体的な統一へ帰還するという二元構成を包含する「巨大な力と深さ」が保持されている


感想

近代国家が自由の現実化だと思えたのは、その前の時代と比較してということだろう…と今の私が思うのは、今が自由の現実化の状態だとは思えないから しかしそう思うことにより、より望ましい状態を現実化することになる…のだろうか?

集積された巨大な力と深さを実際どう使うのかの段階で、巨大な力と深さそのもののために使うことが、個人の人格や生命を脅かす場合にはどうなるのか

普遍性を個人の上におくことを前提にした考えが、近代国家のもとにあるのに対し、シュティルナーはきっと個人を普遍性の上に置くと言い出すのだろう



おまけの写真

昔の脱穀機

シュティルナー / 唯一者とは?

シュタイナーの基本書「自由の哲学」を精読しようとしているが、すぐに気になるところ、ひっかかる表現に出会ってぼんやりとしてしまう

ぼんやりした時間を積極的に過ごすため、シュタイナー本人が「自由の哲学」では同じ主張を違う形で表現したと述べているというシュティルナーの考えについて調べてみている

娘が、研究中のマックス・エルンストというシュールレアリズム画家の評伝の中に、シュティルナーのことが出ていると教えてくれたのでメモしておく

マックス・エルンストは成長するにしたがって、オカルトや魔術的秘教に強く惹かれるようになる。15歳のとき、彼は父親と教会への反抗心から、一冊の本を手にした「唯一者とその所有」であった。

1845年初版を見たこの哲学的な著作はフォイエルバッハからの引用ではじまる。

「人間であること、
これこそ人間至高の本質である。」

シュティルナーは、人間は動植物同様、何者によっても命じられることなく、なんの責務ももたず、規定されることもない、と主張する。

あまりにも長く、人の本能的な能力が教師や聖職者によって抑圧されてきた、とシュティルナーは考える。

もっとも重要なのは、自我が別の自我を思いやる「キリストの魔法の輪」から抜け出すことである、と彼は言う。

「『私』より下にあるあらゆる真実は『私』にとって好ましい。

しかし、『私』より上にあるただひとつの真実、『私』が『私』を裁かねばならぬ、というそのたったひとつの真実だけは私の関知するところではない…。

『私』は無数にある『私的なるもの』のなかの単にひとつの『私』ではなく、『私』は唯一の『私』である。

『私』はただひとつである。
したがって、『私の』欲望も、『私の』行為も、ようするに『私』に関わるあらゆるものはただひとつなのである。

そして、この唯一の『私』としてのみ、『私』はすべてのものを、『私』の所有とするのであり、同様に『私』はただこういう『私』としてのみ動き、発展するのである。

人間として、人類の一員として『私』は発展するのではない、『私』は『私』として発展していくのである。
これが『唯一者』の意味するところである。」


ローター・フィッシャー著 「Max Ernst」より

おまけの写真
竹細工 先輩の作品作り
プロフィール

hasutama

Author:hasutama
神秘学徒hasutamaです・・なんてほんとうは、ただのおばさんです
シュタイナーの著作を読むこと、愛犬をかわいがること、音楽にかかわること、お庭仕事、友人とカフェでおしゃべりすることなどを楽しんでいます

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