認識のさんぽ道

ルドルフ・シュタイナーの著作を楽しみ、 認識の小道散策へ出掛けます
TOP ≫ ARCHIVE ≫ 2012年12月
ARCHIVE ≫ 2012年12月
       次ページ ≫

≪ 前月 |  2012年12月  | 翌月 ≫

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
スポンサー広告 | Comments (-) | Trackbacks (-)

エーリッヒ・フロム「愛するということ」メモ

友人から本を紹介してもらって読むのは楽しい
感想を話し合うのが楽しみ
今日読み終えたのは
小川町で出会った方が教えてくれたエーリッヒ・フロムの「愛するということ」

気になったところ、考えてみたいこと・・

人間の努力のどんな分野においても、創造的思考のプロセスは根拠のあるビジョンとでも呼びうるものから始まる。

根拠あるビジョンの着想から理論の構築にいたる過程のあらゆる段階において、信念は不可欠である。

この信念は、自分自身の経験や、自分の思考力・観察力・判断力に対する自信に根ざしている。

根拠の無い信念というのは、ある権威、あるいは大多数の人々がそう言っているからというそれだけの理由で、何かを真理として受け入れることだ。

それに対して、理にかなった信念は、大多数の意見とは無関係な、自分自身の生産的な観察と思考にもとづいた、他のいっさいから独立した確信に根ざしている。



「自分自身の生産的な観察と思考にもとづいた、他のいっさいから独立した確信」・・
生産的なとは?

現代社会は、企業の経営陣と職業的政治家によって運営されており、人々は大衆操作によって操られている。

人々の目的は、もっと多く生産し、もっと多く消費することだ。それが生きる目的になってしまっている。

すべての活動は経済上の目標に奉仕し、手段が目的となってしまっている。

おいしいものを食べ、しゃれた服を着てはいるが、自分のきわめて人間的な特徴や機能に対する究極的な関心をもっていない。


自分のきわめて人間的な特徴や機能に対する究極的な関心とは?

現在のようなシステムのもとで、人を愛することの出来る人は、当然、例外的な存在である。

現在の西欧社会においては、愛は所詮二次的な現象である。

それは、多くの職業が、人を愛する姿勢を許容しないからではなく、むしろ、生産を重視し、貪欲に消費しようとする精神が社会を支配しているために、非同調者だけがそれにたいしてうまく身を守ることが出来るからである。


愛のことを真剣に考え、愛こそが、いかに生きるべきかという問題に対する唯一の理にかなった答えである、と考えている人びとは、次のような結論に行き着くはずだ。

愛が、きわめて個人的で末梢的な現象ではなく、社会的な現象になるためには、現在の社会構造を根本から変えなければならない、と。



愛という言葉が、恥ずかしいような気がして、
一見、やたら抽象的な、理想的なことを言っているような印象だけど・・

しかし、よく考えてみると、身につまされるような、現実的なことかも

利害を超えて個々の人を思う気持ちが否定され、
生産、貪欲な消費のみがよしとされる社会ならば、
そこで栄えるのは、愛の非同調者でしかない

命、人間の肯定と否定・・今ほどこの文の意味がはっきりわかる状況もないだろう





スポンサーサイト

「イメージ→お買い物」に気をつける

色々な角度からの情報を見たいと思い、
ラジオ・イランのニュースをのぞいてみた

今日見ると、日本はアメリカから兵器のお買い物をするようだ
兵器のお買い物
このニュースは、日本では知らされているのか?

ちょっと前まで北朝鮮がミサイルを発射すると言って
テレビでは「ミサイル、ミサイル」と・・
衛星ロケットだが、しかしミサイルなのだということで
ミサイルという言葉を十分に印象付けていた

それで、何を買うのかというと、もちろんミサイル防御システムで
お値段は、4億2100万ドル♪

4億2100万ドルというと、日本円では・・
え~換算してみると
3兆6400億円



こうしたお買い物は、どのような手続きを経て行われるのでしょう?

イメージの植え付け→お買い物

普段の消費行動においても
国家のお買い物においても

誰のお金で、どんなイメージにより、誰にお金が渡るか?
そのお金の行き先の方が、お金を得るためにイメージを作っていないか?
そんな漫画のような、オウム事件のようなことが、
国際的な規模から、日常生活にまで、人類全体をおおっているのではないか?

一人ひとりの人が自分の持つイメージに対し受動的でいることが、
どれだけのことを許してしまうか
受動的でいることが、十分「野蛮」でさえあることを
自覚しなくては・・


きつねにだまされた人は、きれいなお姉さんのいるおうちによばれて、
素晴らしいご馳走を食べておなかいっぱいで寝ていると
通りかかった人に起こされ
実は寒い野原の真ん中で、馬糞をほおばっていたことに気がつく・・
などというのがパターンなよう
きれいな人とかご馳走とか・・きつねはつぼを押さえている

私たちは科学的な、論理的な時代に生きていて
迷信の時代を、笑い飛ばすほど利口なのか?

増税してまで集めるお金の行方を、
意識をはっきりさせて見張らなければまぬけすぎる

今日もアーサー・ビナードさんの講演を聞いてみました
2010年の講演で、今日の日本のことを完全に見通している彼に驚きます




「這っても黒豆」/アーサー・ビナードさん

状況に関わらず
言葉の使われ方というのが
けっこう気になってしまう私です

大変な状況で
どんな言葉が使えるのか?

そんなこと言っている場合ではないかもしれませんが・・

でも
先鋭的になるほど、あまり興味を持っていない人たちの心は離れていってしまうでしょう

アーサー・ビナードさんの言葉を聞いて
核を推し進めてきた歴史の根深さをはじめて知ることが出来
またその話し方の面白さに感心してしまいました
精神のタフさ、ユーモア、本質を見抜く目、思考力、表現力・・
彼の言葉にもっと耳を傾けたいです

命に意識的になる/未来の私に聞く

昨日は法政大学サスティナビリティ研究会が主催した有機農業映画祭に出かけました
ミツバチの危機についての映画ではシュタイナーも登場

国家政策によって戦前、戦後にかけて崩壊させられた
それぞれの地方にある農、食に関わる生活文化を再構築することこそが
復興でなくてはならない
原発事故を放射能の問題だけに矮小化してはならない
それは土と人との分断
人と人の分断
地方と都会の分断
当事者意識の欠如・・等々
の背景のもとに起きた事故であるから
復興とは、それらを取り戻すことでなければ意味が無い
あ、これ内山節さんが、「ローカリズム原論」でも
講演会でも言っていたこと
しかし講演会に行ったときには、まだいまひとつピンと来なかったの

反対とは、何の肯定であるかを
もっと意識したい

二本松市で汚染された田畑、山林相手に有機農業を守る取り組みを
仲間と共に継続している、菅野さんという方のお話を聞くコーナーに行ってみた
実際に放射能の数値を綿密に測定しながら、どうすれば作物に対する被害が防げるのか
仲間たちとともに取り組み、課題は山のようにあるものの(実際、山林が問題)
今年はなんと、放射能不検出のお米、野菜の生産に成功されている

お話をうかがったあとの質問タイムに
「そのような取り組みを行う従事者自身の被爆についてどう考えるのか?
今そこで頑張るよりも、まずはその地を離れ、違う場所で有機農業を行ってはどうか」
という意見が出た

それに対し菅野さんは
「どうして逃げないのか?とよく聞かれる
農は文化だということ
農の文化から、踊りも、歌も生まれた
たかだか50年の歴史しかない原発のために
なぜそれを捨てるのかという思いがある」
という主旨のことを話された

今年ほんの少し農に関わったせいで
菅野さんの言うことにも共感することが出来たが
もし関わっていなければ
馬鹿じゃないの?早く逃げて
そう感じたかもしれない

感情論じゃない?と思うのは
その地での、土地や人や歴史や・・
との結びつきを、現にあるのに見えない放射能と同じで
見ようとしなければ見えないけれど実際に存在していて
それもまた、放射能が力を持つのと同じように
いやそれにも増して力を持っていることを
わからないからだと思う

命を守る、肯定すると言っても
命は、周囲との関係性の中で生きるもの
その関係性をどのような範囲で理解するかによって
守る行動も違ってくる

考え、行動の違いが、新たな分断でなく、より深い理解、つながりへと発展しますように・・

いいお話、映画を見て、色々な意味での命の多様性、つながりの中での営みに感動して
夜10時近くに家につくと
あら!?選挙結果が・・

そうだよな・・先日しばらくぶりに母のところに行ったら
「ねえ、もう原発どころじゃなくなってしまったね」だそうで
母ってのは、テレビっ子だから
ネット世界なんて、小さいんだな・・

やはり、個々の人間が自分の中心に何を置くのか
それを自分に向かって問わない限り
命は分断され、否定され続ける
しかしもし肯定しようとするなら
それがどれだけ豊かなものを自分にもたらしてくれるか
そうしてみない限り理解するのは難しいだろう
まるで宗教みたい

命の豊かさを、物質的な意味でも非物質的なレベルでも
信頼し、享受する
それを意識的にしてみる

~神々とは、未来の私たちなのです~
「死者の書」の中でシュタイナーは言っている
未来の私自身の声に耳をすましたい
過去のおばけがイザナミのように私達を飲み込もうとしても・・

さて・・おしまいに、
古い動画ですが、アーサー・ビナードさんの言葉を聞きたくて・・

色々な気持ち・・

青くなったり、赤くなったり・・
わからないなりにも政治の状況を見て
魂の色が変化する気がする

ずーっと青くなっていたのが
ここへ来て少し赤が混じる気が・・

シュタイナーは、青、赤について以下のように言っている

青色は内的に集中し、鬱積し、内的に持続します。それは魂の輝きです。

赤色は空間を一様に満たし、中心を保持します。それは生命の輝きです。(「色彩の本質」(イザラ書房))

  

鬱積しすぎて、黒くなりそうだったので
身体の外に、黄色を必要とし始めていたが
今は生命の赤がともる気持ち

魂があるのなら、政治のニュースでも、魂は変化するはずでしょ?

山本太郎さんが杉並から出馬する理由を聞いたり
飯館村でかだ(今まで字を読めなかった)さんが最初の演説をしたこととか

空間に満ちたとしても、中心が保持されなければ生命的とならないなら
中心となる象徴的な人物や行為は必要なのではないだろうか
浮かばれない魂というものがもしあるなら
それらが命を吹き返す言葉、場所、行為というのもあるだろう
それが何なのかをわかるということが
象徴であるものを、知らしめる暗号ではないかしら?

この手法は悪用することも出来るだろうが
しぼりとるように集められ利用されることを拒否することを知った魂たちは
その違いを識別する能力を高めているはず
象徴、中心を押し付けられたのではなく
空間に満ちる思いが先にあったことは個々に知っているからである

やはり必要なのは緑かな
魂が生命的に躍動し、それが社会的にも生命を持ってつながったとしても
命の勢いで暴れるのではなく
宇宙の叡智の中で育つことを知っていなくてはならない
かださんが黄緑色の服を着て、琵琶湖の水から出てきたのなら
そのまりもをみんなで育て、増やしてみたい



でも今までも今も、実際に頑張ってくれている方たちのことも忘れたくない
私の住んでいる市の「路傍の土」についての市民の通報に対し
市がどのように認識し対応しているのか
市議会で質問に立ったのは共産党の議員さんである
共産党は婦人の会を通じて一番早い段階から学校などの計測を行い
ネット上に公開してくれていた
市民の調査活動、問題提起を支えているのは社民党の議員さんである
学校給食の測定が実現されたのは社民党議員さんの力が大きかった
市の広報に結果が公表されてからも、計測の下限値が記されていないことを改善させるなど
その情報を必要としている人と同じ目線で、果敢に活動してくださっている

昨日の地震ではいっきに青くなったけど・・

核というものは、あらゆる人間の思い、努力を
一瞬にして全て台無しにしてしまうのだということを
揺れる大地の上で、あらためて全身で恐怖した

ちょうどラーメン屋さんに入ろうとしたときに地震が起きて
建物に入るのを躊躇していると
中からラーメン屋さんの奥さんが出てきて
奥さん「こわいですね~」
私「また東北でなければいいのですけど・・原発も心配です・・」
奥さん「ほんとうに・・私の実家は仙台なんです・・」

テレビやラジオで、この気持ちに沿って現場に駆けつけてくれる局は
あるのだろうか?
地震の解説を東大の先生から聞いても青いままである

おしまい
プロフィール

hasutama

Author:hasutama
神秘学徒hasutamaです・・なんてほんとうは、ただのおばさんです
シュタイナーの著作を読むこと、愛犬をかわいがること、音楽にかかわること、お庭仕事、友人とカフェでおしゃべりすることなどを楽しんでいます

FC2カウンター
FC2カウンター
現在の閲覧者数:
Powered
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。