認識のさんぽ道

ルドルフ・シュタイナーの著作を楽しみ、 認識の小道散策へ出掛けます
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チルチルの帽子

ぼんやりと独り言してみる
イメージを開放してみる

「自由の哲学」では、「意欲する自由」について考察するために
「動機の現れ方」に着目するらしかった

動機は、いったいどこから出現するのだろうか?

そもそも、動機がどこから出現するのか?という
その問いは、どこから出現するのだろう?

それらが自分の中からだとは言えない

今思っているのは、どのような動機も、
自分の内側には無いのではないか?ということ

私の場合、とにかく「受け身」で
自分の中には、特に何も無いと感じる

ただ、もしかしたら動機は、
私の「意識の物語」の中から発する・・のかも?という気はする

それで、その意識の物語は、自分の中にあるのか?というと、
それは自分の意識なのだから、自分の中だろうと思いながらも、
もしかしたら自分の意識は、
自分の中にあるとばかりも言えないのではないか?とも思われる

なぜかというと、意識が外側にあるような気がするときがある
というか・・意識は必ずしも内側ではなく、
外側とのやりとりが内側として把握されるのが
意識というものではないだろうか?
それって内側とか外側とか言うこと自体
意味あるのだろうか?

つまるところ、私の役割は、
「映す」ということではないだろうか?
映されるものは常に、外側にあるのではないか?

意識は、周波数のようなものだと思ってみるのはどうだろう?
周波数を共有できる人となら、ツーカーでお話できるが
はずれすぎていると、言葉も通じなくなる
周波数に合うものが、その周波数の場に集合
実体が現れる

意識は一つのサロンであって、
私の・・と、必ずしも言えないのだったりして?

意識のサロンの設定状態がどうなっているか
その調整権は私にあるかもしれない

だとすれば、どの場を選ぶのか
その調整能力がもしあるなら
そこには自由があるかもしれない

チルチルの帽子についていたダイアルみたい
あの帽子を、みんな本当はかぶっているのだろうか?














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「自由の哲学」を読みながら思ったこと・・

今、別ブログでだらだらと、シュタイナーの基本書と言われている、
「自由の哲学」を読みつつノートする、というのをやってみています

それで思ったこと

これはまったく自分を擁護するために言うのですが
私は以前より、考えているばかりで行動しない・・というのは
考えるという行為を、行動とみなしていないのだろうな・・と、
それに対して少し、違和感を感じていたのです

つまり私は、考えるという行為は、走るとか、演奏するとか、働くとか、テニスをするとか、
そういったものの一つで、実質的な、能動的な行動だと思っていたのですが
それをはっきりと意識することはできなかった

でもこの本を読んで実感したことは、この本を読むことは
土木工事に似ているということ

構築作業が忙しく、素材を組み立てるのに右往左往
なかなか汗をかく力仕事です

でもやり始めると、立体的なパズルみたいで、
言葉による概念の組み立てにはまってきました
いったい、この物質的な構築物を組み立てながらよじ登って、
どこまで行けるのだろう?
「SASUKE」みたいで、わくわくしてきます

ああ、シュタイナーは、よくこれを建てておいてくれた・・
彼にしてみれば、このような作業を行うことは
相当泥まみれな作業だったはず

このブログで何度も書いているが、
コーヒーの霊的作用は、物質的な思考であるとシュタイナーが言っていた

物質的な思考とは、どのようなものかわからなかったけど
自由の哲学は、物質的な思考方法を利用して、論旨が展開していると思う
でもこれを、今それ以上の言葉で説明することができない

この自由の哲学は、物質的な思考でも理解できるように
書き残してくれたものだという気がする
この本以外の著書は、そうではない

なぜか・・彼はこんなところまで来たの?!という、
イメージがわいてくる

完全にヘンだけど、シュタイナーって本当は、
人間じゃなかったのではないか?
そんな気がしてきた

わけのわからない話でした













ときには天動説的発想・・

ご無沙汰しています
いろいろバタバタしています
夏休みで、子どもが帰省したり、旅立っていったり、
親が入院したり、お風呂のドアが壊れたり・・

今日はちび花お休みしましたが
先週は出かけていきました
ファミリーエリアなる場所へと流れ着いたら
一緒に「ふるさと」を歌いましょうというアナウンスがあった

内山節氏の著作によれば
「ふるさと」は、国家が古里観までも一律のものにしようとして
さくら観賞の習慣とともに、政策的に広められたもの・・ということだったので
ちょっと抵抗がありました

そもそも「国家」という発想は、ヨーロッパから発しており
近代、国家単位でものごとを進めようとしたのはなぜか?というと
それが一番、戦争するのに都合がいいからであると
内山さんは「ローカリズム原論」にて、述べられていました

内山さんがローカリズムを発信するのは
そうした国家単位の発想に歯止めをかけるのが
ローカルな発想だからということだと思います
国が、政策的にローカルな発想をつぶそうとした理由もまた
そこにあるということで

ですが、その国家的なエネルギー事業の方向性に反対するときにも
「ふるさと」が歌われるなら、皮肉な話で
肝心なのは、それが歌われるときの意味合いの問題なのでしょう

個人に重きが置かれない、人命軽視の発想と
一つの価値観、共有できる意味合い、情緒性、を重視するというのは
表裏一体なのか・・
もしそうなら?

たとえばオリンピックというのも、国家的なことかもしれませんね
テレビのドラマや情報もそうだし

全部が全部そうだと思うのではなくて、そういう面もあるという見方を
時にはしてみて
自分だけが知っている・・というようなことの価値が
時には国家的なこと、世界的なよりも大きいという発想をも
大事にしてみたいと思います

なんかうまく表現できませんが

これ、シュタイナーが言っていた天動説の話に似ています

天動説は、今では馬鹿にされているかもしれないけれど
天動説には天動説の意味があった・・という話です

天動説から地動説に、みんなの意識がシフトしたとき
一人ひとりの人間の価値、重みに
どんな影響があったのか?を考えてみると
地動説になったとき、
人間は宇宙の中心であることをやめたとも言えるわけで

「科学的」な、「正しい」発想に価値が置かれるとき、
人の人生の価値は、どのようなものなのでしょう?

宇宙全体のなかで、一人の人間の価値は
「科学的」「地動説的」には、
限りなく無に近いものかもしれないですね

おしまい

死者との共同生活(^^;

バッグの中に、待ち時間に読む本をいつも入れておきます
今は、シュタイナーの「死者の書」が入っています

この本の解説で、高橋巌氏が述べていることが面白いです

内山節さんは、「文明の災禍」の中で、
復興には死者も加わらねば・・とおっしゃっていて
それはどういう意味合いなのか、まだ良く理解していませんが
興味深く思っています

というのも、シュタイナーもよくそういうことを言っているからです
この本の中でも、死者との共同生活について述べているようです↓

「死者の書」訳者あとがき より

本書が何よりも強調しているのは、
現界と霊界とが、決して切り離されておらず、
むしろ相互に深く関連し合っているということである。

霊界のことを考えなければ、この世の本当の姿、本当の意味は理解できない。

だからシュタイナーは、今日の社会の危機を乗り越えるために、
死者との関係の回復をわれわれに求め続けてきた。

地上のわれわれはいつでも、覚醒時にも睡眠時にも、
死者との共同社会に生きている。

・・略・・

われわれが自分の個人的な利害関係を超えれば
・・それは日常のどんなときにでも可能である・・
どんな行動の中にも、死者を通じての霊界からの働きかけが生じるのである。



どんなふうに共同しているのか?
感じられたら、面白いのにな・・
プロフィール

hasutama

Author:hasutama
神秘学徒hasutamaです・・なんてほんとうは、ただのおばさんです
シュタイナーの著作を読むこと、愛犬をかわいがること、音楽にかかわること、お庭仕事、友人とカフェでおしゃべりすることなどを楽しんでいます

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