認識のさんぽ道

ルドルフ・シュタイナーの著作を楽しみ、 認識の小道散策へ出掛けます
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「宗教の理論」つづき・・資本主義の神々?

バタイユさんが「宗教の理論」で示してくれる世界は
言葉のイメージをちゃんとつかまないと
全部わけがわからなくなりそうです

食べる動物と食べられる動物の関係は
水の中の水同士、大きな波が小さな波を飲み込むようなもので
人間が考えるような主従意識は無く
その「お互い様」な関係(その意識もない)を「内在性」と言っているようです

鉱物は独立して存在できるけれど
有機物となるとこうした関係性抜きに存在することは出来ない

これは被害者とか加害者というようなことではなくて
無意識に、あたりまえの状況としてあるのである

彼によれば、儀式としての「生贄」というのは、
そうした内在的な関係を取り戻すためのもので
わざわざ「何かの役に立つ」という但し書きがついた「事物」として
意識的に区切り、よそよそしく存在することをやめる・・ということか?

hasutama NOTE

供犠執行官は次のように呟いている

「内奥においては、私は神々の至高の世界に属している。

強烈な力が荒れ狂う、利害や打算を離れた推量の世界に属している。

私の妻が私のさまざまな欲望に属しているのと同じように。

生贄の獣よ、私はおまえを今いる世界から引き戻す。

おまえが(何かの役に立つ)事物の状態にされてしまった形でしか存在できず、
内奥の本性にとって表面的な意味しか持てないような世界から
おまえを引き戻すのだ。

私はおまえを神的世界との親密な交わりへと、
あるいは全て存在するものの深い内在性との親密な交わりへと立ち返らせる。」



「推量の世界」って何でしょう?推量=想像?

この神々というのは推量の世界に荒れ狂う力=欲望?
その中に自意識なくはまりこんでみれば
役に立つもの、意味付けという罠からのがれることができる
内奥の本性に合体できる?

イメージするのに一苦労します

なにか・・
DV夫の話につきあっているような気がしてきましたけれど

人間特有の意識、意味づけをやめて
内在的なありように「横滑り」することが
彼の言う神々の至高性、内奥の本性と合体することであるということ・・
で、あっているのかしら?

これは、リービさんが言っていた「言葉にすることの暴力性」の話と
つながるところがあるのかないのか?

彼の言う「欲望」について、もう少し詳しく知りたいな
打算や利害を離れた・・荒れ狂う強烈な力・・神々とは?
その荒れ狂う力って、欲望なのか?
欲望は内在性の中では打算や利害ではなくて、神々?

気になってしまうのは
食べる側に都合のいい話な気がするところです

これが今の日本なら?
放射能の被害はあっても
お互いが日本経済という有機物の機構内のことだから
被害、加害の関係じゃないでしょ?みたいな?

ん~、公には言えないかもしれませんが
実際には、原理としてそういうことがある?

個人が蹂躙されていることに
無頓着でいるのはそのためで
内在性というのはいったん個々のものがはっきりと自意識を持つなら
暴力と感じられるようなことも
内内のことにしてしまいます

というのも、そもそも資本主義を有機体と考えると
食べられるものと食べられるものがいることは
有機体である以上当然ということになります
資本主義にとっての荒れ狂う力の神々の世界なのですから
個々のものたちは水の中の水同士
どっちに転ぼうと同じことです

日本自体が個別性を打ち出そうとしたとたん
内在性回復の生贄になるんだったりして

なんて?

全然理解していないのかもしれません
とりあえず、この本で
バタイユさんの言うことの全体像を見てみないことには

この内在性という偏った見方をすることの意味は
あとでわかるよ!とバタイユさんは言っているので
この観点から見える彼の世界をもうちょっとのぞいてみまーす







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最終状態の不可能性 / 渦巻きの向こう

バタイユさん 「宗教の理論」からの hasutama NOTE

不可能性の原則は、
どんな哲学をも限界付けている

哲学は、はじめから、ある一つの分解できないような要請に応えている

哲学が喚起する問いに対する応答と独立して「存在する」ことは出来ない

哲学の応えは、哲学的な作業や探索の結果ではありえず
次のことを所与のものとして前提としている

・個人的な立場を重んじないこと
・思想が運動性に富むこと
・すべての運動に思想が開かれ、可動的であること

自己満足せず未完了であることが、
応えに結びつけられている

というか、
むしろそれが応えと同質で不可分である

思想の移動する領域を、
科学者が行うように、枠付けられた範囲に限定しなければ、
獲得された認識を十全に同化し、吸収するのは不可能である

このことは思想の本質的な未完了に、事実として避けようのない未完了を付け加える

個人の思想というものはあり得ず

思想の実践的営為は、
個人的なパースペクティブを拒むこと以外の出口を持つこともあり得ない

未完了は、応えに「不可能なことの叫び」という真実を授ける


・恣意的=気ままで自分勝手なさま 論理的な必然性がなく、思うままにふるまうさま

・所与=他から与えられること また、そのもの
    哲学で、思考の働きに先立ち、意識に直接与えられている内容

・パースペクティブ=観点、見地

書くことの不可能性という可能性 by 神田浩一氏

↑今のところバタイユ氏に対し、たいへん共感しています
彼は面白い人です 
渦巻きの先の世界でいっしょに遊ぶ仲間を見つけたような気持ちです

追記

考えてみたいのは最後の

未完了は、応えに「不可能なことの叫び」という真実を授ける




応える

叫ぶ

授ける

の主語は?

なぜ「叫ぶ」必要があるのか?














文字は墓碑なのか?

頭の中である程度まとまったら・・
そう思っていてもなかなかまとまらないので

とりあえず気になっていることをメモしてみることに・・

本を読んでいて気になるところを発見すると
それが気になってきて先を読めなくなってしまいます

しばらく前にリービ英雄さんの「我的日本語」を読んでいて
↓ここから、読めなくなってしまった

第二章「万葉集」 ~文字以前の無意識の記憶~ 

折口信夫の「死者の書」など、日本の文学者が飛鳥から奈良への転換を見るときに、文字以前の感性という「前近代」があって、それがいわば「近代」である奈良時代において、記憶として蘇る、そういう見方がうかがえる。

文字を持つ以前に、より本質的なものがあったという感覚。

三島由紀夫の天皇論でも、天皇が文字によって書かれた時点で、すでに変容したということを暗示している。天皇の人間宣言は1945年ではなくて、「古事記」が書かれた時代にあった、という文化論。

こうした見方に触れたとき、ぼくは驚いた。

もしかすると、日本語にかかわっている人たちのなかに、文字以前の状態という、無意識の記憶が常にあるのではないか。すると、翻訳過程がその無意識を表現するある種の暴力、あるいはそれを葬る行為として自覚されたのではないか、と想像することがもできる。



ここがどうして気になるかというと・・

文字以前の状態→文字による表記 の過程を、
ある種の暴力的行為、初めにあったものを葬る行為と感じることに、
共感したからだと思う

今まで三島由紀夫さんに共感できると思ったことは無かったが、
天皇論には上記の意味においては興味がわいた

追記

リービさんの血の中にある論理的な感性が
日本の血にしみこんでいるものとらえるときには
日本人自身には自分すぎてわからなかったものを
普遍的なものとして、きちんととらえなおしてくれていると思う

(本来、西洋と東洋が出会う意味というのは、
こうした行為にあるのではないだろうか?)

「日本の本質的なもの」があったとして、
その価値を日本人が明らかにしないまま
日本人のことは日本人にしかわからないものとして
時に応じて自惚れてみたり、劣等感を抱いてみたり
情緒的になったり、いきりたったりするが
いったいそれが何なのか?と
その価値を普遍的なものとして
愛をもって明らかにしてみたことはあるのだろうか?
あいまいなのをいいことに
戦争などで命を駆り出すときの道具とされたりもするのは
かえってその価値に対して失礼なのではないかと思う

名前をつけることの暴力性は
その後それをその価値の本質的な意味を無視して
利用することが出来るようになってしまうことも含めて
考えることが出来る

はじめにあったものが埋葬されるというのは
その本来の生き生きとした命が
文字の中に固定されてしまうということだろう

文字はすでに墓碑であるから
それを感じることのできた時代には
文字はまず、歌や詩となった

折口信夫さんの本も読んでみたいと思います






卵 / 混沌



今一番癒されるのは車で聞くこれです↑

どちらかというと歌詞が無い曲のほうが好きです

一つの情緒、一つの観念
そーゆーものから解き放ってくれて
瞬間ごとに新しい感覚が目覚めさせられるのが気持ちよいです

「卵」という題からの
イメージとしては・・

これから生まれようとするものの中で
脈打つもの・・その気配
いったいどれだけのざわめき、叫びが閉じ込められているのだろう?

混沌になるならなれ
卵の中では
それは必要な過程だから

この世界の壁を割るそのときまで
あらゆる表現を
極限まで行うこと
それこそが求められている

卵に向かって
押し寄せてくるものはすごいです

生命が自覚の無いままにしょっているものの大きさを感じます









「妙なる畑」/絶対界

昨日は自然農の講習日でした

植えておいたキュウリの苗を
すっかり召し上がった方はどなたなのか?
疑問に思っていましたら
それはウリバエくんだということがわかりました

ウリバエくんがキュウリの苗に気づかないようにするため
あんどんのようなついたてを立てる方法を教えていただきました

初めてのことで、なんでも面白く思います

植えておいたお米の苗代は、元気に芽を出していました
ところがお米の苗に混ざって、ひえが芽を出していて
素人には全然分からないぐらいお米の苗とそっくりです

その分別法を、手取り足取り教えていただきました
教えて下さる先輩方が優しくて、楽しく学ぶことが出来ます
この会にめぐり合えて、ほんとうによかったと思います

終了後、自然農の大先輩方の立ち話にお邪魔していたら
原発事故後の自然農の会の状況にはじまり
眼からウロコの貴重なお話をたくさんうかがうことができました

あ~つくづく私ったら現状認識甘い!と痛感しました
世界の現状は厳しい・・

でも、それと同時に、やはり世界は私に味方してくれる・・
とも思いました

だってあまりに素敵な偶然が笑顔で来てくれたら・・
ナニカ氏の祝福かな?と思ってしまいます

相対界→絶対界・・境地の体得・・by川口由一さん

絶対界は不思議な現れ方をします

「妙なる畑」は、おばちゃんの私も自称シュタイナー系神秘学徒の私をも
大きな心で包んでくださる・・のですね?

ありがたやありがたや・・









プロフィール

hasutama

Author:hasutama
神秘学徒hasutamaです・・なんてほんとうは、ただのおばさんです
シュタイナーの著作を読むこと、愛犬をかわいがること、音楽にかかわること、お庭仕事、友人とカフェでおしゃべりすることなどを楽しんでいます

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