認識のさんぽ道

ルドルフ・シュタイナーの著作を楽しみ、 認識の小道散策へ出掛けます
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空想力→新しい現実

人間にはなぜ空想する能力があるのだろう?

ドストエフスキーの「地下室の手記」を
主人公の、あまりの自意識過剰の滑稽さの悲喜劇を
ときどき噴き出しながら読んでいるのだけど
でも、笑えない気もする

シュタイナーが言っている宇宙進化だの
霊界だのだって、ものすごい空想そのものかもしれないし
(今の常識から言うと空想そのもの)
だからその空想を真に受けて、吟味している私も相当滑稽だ

意識はなぜ、必要以上の想像をするのか
神だの愛だの善だの美だのって
ニーチェが言うように、目の前の生から逃げるため?
自意識は病気なのだろうか?

目の前の生を生きる意志って何なのだろう?
そもそも意志を反映するための「生きる現実」と思っている世界は
自分の感覚器によって把握されている

だから持っている感覚器によって現実と呼ぶ世界は違ってくるはずだ
魚と鳥とでは、現実だと思っている世界は違うだろう

だとすると、新しい感覚器をもし得たとしたら
どんな現実が現実となるか?・・と考えることが出来る

人間の場合、空想力は個々人に与えられたオリジナルな感覚器と言えないだろうか
人間の個人は、動物の種が違うのと同じぐらい、
他の個人と違う世界を生きる可能性を、潜在的に持っているのではないだろうか?

現実を創造するというのは、つまり新しい感覚器を持つことで
自分の空想力は自由にデザインできる感覚器なのではないか?

世界を創造する能力を人間が持つ
それとも
今より高度な感覚器を持つことで
違う現実が見える
・・のか?

意識、空想する能力・・は、
まだ人間がきちんと取り組んでいない分野なのではないだろうか?
















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春休み /それぞれのパルス

春休みで娘達が帰ってきてくれて
学校での様子を聞きながら賑やかに過ごしています

子どもによって性格も、たどる道筋もまるで違って
今までの全体を振り返ると、小さな頃の出会いや出来事の全てに
なるほどそういう脈絡か~というような
一貫したものがあるような

かわいいかわいいと
ただ愛犬のようになでている場合ではなく
(なにしろもう私より背も高いわけで・・)
その子の持って生まれたものに対する
畏敬の念を感じざるを得ません
いや愛犬にだって、それを感じますけれど

私としては、ただ私という人間の範囲内で
何か言ってみるだけで・・
子どもは子ども自身の『宇宙』と言ってもいいような
不思議な網の目の中に生きていて
子ども自身のパルスが
常にその世界を関連付けるというか
有機的にするというか・・
出会うべき人を呼び寄せ
生きるべき出来事を生きていくという気がします

子どもにはいつも驚かされ励まされ勇気付けられる・・
なんとも受け身な私
若者からエネルギーを吸うだけの年寄りに
すでになっているという気がします




わからないって気持ちいい!?/咽頭による受胎

答えが見つからないことは不安定なのでしょうか

日々疑問はたくさん生まれます

「わからないなー」・・「ちょっとわかった気がする」・・

しかしまた新たな疑問が生まれます

先日わかった気がしたのは

すごくわからないことを,わかりたいけどわからないな~と、
そう思っている時間がけっこう好きだ・・というか、その状態を
意外と愛しているのではないか?ということです

それでまた思いついたのは、なんかこれ女性的な状態で、
受胎を待っている人みたい

それじゃそうか!とピンと来るときは、
ナニかがナニしたときなのでしょうか!?

それで思い出したのは、シュタイナーが言っていたことの中でも
もっとも笑ってしまう話で、

「未来の人間では、喉頭が生殖器官となる」

というもの・・

また同時に、聖杯伝説の聖杯とは何か?という話の中で、

「変化した咽頭(いんとう)が聖杯と呼ばれる事になる」

としており、

「植物のがくは、無垢に太陽に向かって伸び、結実器官を太陽に向けて成長させている。

 同様に、人間は、咽頭をがく=杯として、霊的な日光に差し出す様になる」

としています

霊的な日光って・・

のどをあんぐりと開きながら霊的な日光浴???

いったい未来の人間は、喉からどんな形姿で産まれるのでしょう?

転生するのが、楽しみになってきますね~












吸い込む叡智/「西洋の光のなかの東洋」

今読んでいる本で一番面白く思っているのは
ルドルフ・シュタイナーの本で「西洋の光の中の東洋」です

西洋的な視点と東洋的な視点
それぞれがどのような観点であり、どのような存在理由を持ち
はたまた、それがどのような形で出会い、未来に作用するのか?
そんな内容なのではないかと思って
それはけっこう今必要なテーマな気がして
シュタイナーの考えを聞いてみたく思って読み始めました

読んでみるうちにはまってきました
だいたいが意味不明なのですけど
ピンと来るニュアンスをもらいます
すると、普段疑問に思っていることへの大きなヒントになります

昨日寝る前に読んでいたらすごく面白く思ったところがあって
でもこんなのみんなドン引きだろうな~と思いつつもメモしてみます

古代インドの思考方法について

自分が肉体の中に嵌入(かんにゅう=はまる)していることを忘れてエーテル体に沈潜したとき、古代インド人たちはエーテル体とエーテル体の器官を使用することが出来ました。・・・・

「目で見るのではなく、耳で聞くのではなく、肉体的な悟性器官によって考えるのではなく、エーテル体の器官を使用するのだ。」と感じました。・・・そうすると、生きた叡智が現れてきました。・・・

あれこれ考えたり、空想したり、合理的に考えたりするすることはまったくなく、肉体から出て、エーテル体の中を見たのです。エーテル体には、神的世界からの贈り物のごとく、宇宙的な神的思考の総体が込められています。
この神的思考から、宇宙は発生したのです。・・・

古代インド人は、論理学を必要としませんでした。彼らは神々の思考を見たのです。



リグ・ヴェーダに書かれていることを、ヨハネ福音書に書かれていることと比べると、

ヨハネ福音書・・神的な叡智の表現として書き留めたもの
リグ・ヴェーダ・・叡智の直接的な模写

という違いがあるとのこと
リグ・ヴェーダは、「聖なるものについての文書」ではなく、
「それ自体、一個の聖なるもの」である

叡智とは、古代インドにおいては「吸い込む」ものだった

本の題名からすると、西洋は光であるらしいので、
西洋には西洋の素晴らしいあり方があるのでしょう
東洋におけるこのような叡智の「吸い込み」に対し、
西洋はどのようなあり方なのか・・大変興味深いです
(でも実は、リグ・ヴェーダを読んだこと無いのですけれど

今日はここまで・・








キリスト衝動?

書くことが思い浮かばないけど
何か書いてみましょ・・

車を運転しているときや
犬の散歩をしているときに
急にある考えに見舞われて
あ~、そうなのか?!と納得してしまうのだけど
その考えは何物なのだろう?

昨日もいくつかの考えがやってきて
面白かったので娘に話してみたりした

ドライブ中の考えはこうだった

人間には想像もつかないほど「不条理な悪、巨大な悪」が実在し
だからこそ、その反対に、
「無条件の善、巨大な善」が存在する
悪の大きさ、不条理さに比例して、
善の太っ腹ぶりも、想像を絶するものになる
もう人間レベルじゃないのです

え~?
しかしそんなものはいったいどこにあるのだろう?
人間並みにしか考えられないので混乱してしまう

夕方犬の散歩をしていたら、よもぎや春の草花が芽生えていた
すると、話の続きがやってきた

「その生命を息吹かせているものがそれですよ
 その命の中にも流れ込んでいます」

そうなの???
それじゃあ・・私達の存在の根底にもそれがあるのではないだろうか?

それなら、まずそれが先に贈与されている
つまり私達には、先に借りが発生している?

他人に乳をやる夢を、なぜか思い出した

意識の無いものに、意識を芽生えさせる「乳」の白さを思ってみた
シュタイナーは、乳は霊的な飲み物だと言っていたっけ

だから夢のなかで抱っこしていたあの子は、
北朝鮮のアナウンサーのように無表情だったのか
乳を飲んで、目をパチパチとさせたので
私は嬉しくなって「あ~良かった!」と叫んでいた
乳を飲む前には、霊的でなかったものが
霊を飲むことで、目覚める・・???

まとまらない独り言でした




プロフィール

hasutama

Author:hasutama
神秘学徒hasutamaです・・なんてほんとうは、ただのおばさんです
シュタイナーの著作を読むこと、愛犬をかわいがること、音楽にかかわること、お庭仕事、友人とカフェでおしゃべりすることなどを楽しんでいます

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