認識のさんぽ道

ルドルフ・シュタイナーの著作を楽しみ、 認識の小道散策へ出掛けます
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ぐち~

今日はお休みで、雪が降っているので
家の中でのんびりと過ごしています

めまいは、良くなっています
でも音が響くのはあまり変わりません

家の近所の土壌の放射能がどのぐらいかを
調べてくださった方がいて
その方はその後、お子さんと奥様を疎開させました

低いところでさえ250Bq/kg以上ですから
本来ならこんなところにいないほうがいいのだろうな

α線核種の可能性も考えると
ますますそう思います

自然農も被爆しつつ汚染されたものを作ることになります

200Bq/kg以上の場所では大人でも危険なのだとか

でもその認識を持っている人はほとんどいません

一方、放射能から子どもを守る会では
お茶会のポスターひとつ張るのにも、大変な思いをしています
知りたくない、目にしたくない人も多いのでしょう

私の職場では、相変わらず
人の悪口を言いあって大騒ぎしています

は~、しあわせです

年をとっていれば大丈夫・・
ほんとうにそうなのか
じゃあ、若い人だけ疎開すればいいのか
家族が離れ離れになってしまうし
それぞれに
今まで努力してきたことが無になってしまうこともあるでしょう

反原発と言っても、まず自分達の今の安全な生活さえ
守れていないというか、常に傷つけられているというか・・
それに異を唱えることや、安全確保のための権利を行使すること
またそれをあきらめて、とりあえず行動する・・
それをまず自分でも出来ていませんし
その意識を人と共有できてさえもいない

あ~なんとか移住できないかな・・
でも手放しで安心な場所というのは無いのかも

・・

おもいっきり愚痴ってしまいました

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死者がやる気をなくす時

朝目覚めた瞬間に、私のまどろんでいる意識のかたわらに、
ある思考存在くんが立っていて、愚痴をこぼした

「だから同じなのよね
 派遣社員やパートの人たちと

 帰属意識が薄くなってしまってね

 魂を込めるということは・・

 立場が保障されていないんじゃ
 やる気が薄れるのはしかたがないでしょ」

ほー、ほー、とすごく納得したけど、
起きてみるとそれが何だったのかわからない

それからお風呂に入って
立ち上る湯気をながめていたら
補足の説明がダウンロードされてきた

でもイメージの形だったので
うまく人間語に変換できるかな・・?

え~

まず前提として
シュタイナーの、原子力利用に関する話がある

電気というのは、光を押しつぶし、この世界よりも低次の力を解放したもの
原子力は、もっと強く押しつぶして、さらに低次の力を解放するもの
ということらしく

人間が低次の力を解放することで
地球そのものを支えている力は、結束よりも崩壊へ向かうと彼は言う

では、崩壊の力の反対に、地球を支えている力って?
それは死者たちの力だそうで
私達が眠っているときの意識も、そこに属しているらしく・・


意味不すぎるが、気を取り直して想像してみるに・・

その力は、「物質」を押しつぶしたもの(低次の物質)の反対で
精神的エッセンスを抽出したものではないだろうか?
それも、広い意味での「物質」(高次の物質)なのかもしれないが
その、高次に属する物質は、
あるまとまったイメージや概念という形で存在するのではないかと私は想像している
イコール「死者」ということ
(だって、死んだ人の死体そのものを、死者とは言わないでしょう?
 それならば、その精神的エッセンス=死者であるから・・)

イメージや概念(=死者)を利用して
都合よくパート労働させて、身分を保証しないから
それらは物との関わりがパートタイム的に薄れてしまったと訴えていた

人間は、それを利用するだけなので、
そちらの側では、気持ちを込めてやってきたことも
ついついいい加減になるし、たまには仕事を放り出したくなる

ついには全部、投げ出してしまおうか?と
思うこともあるのだという・・

死者たちの入魂が減り、「物」が薄くなっている
ついには消えてしまう

そんなこと・・
本当にあるのだろうか?

浜辺の思考スタイル/穴ぼこだらけの浜辺

「海からの贈り物」アン・モロー・リンドバーグ より

・・・・二週間目のある朝、頭がようやく目覚めて、また働き始める。
都会と同じではなく、浜辺のスタイルで。

それは、浜辺に砕ける波といっしょに漂ったり、戯れたり、静かに巻き上がったりし始める。

頭に起きたこういう無意識の波が、意識の白いなめらかな砂の上に、偶然に、どんな宝物を、どんなに美しく磨きたてられた小石を、あるいは、海の底にあるどんな珍しい貝を、打ち上げるかわからない。・・・・

しかし、それをこちらから探そうとしてはならないし、まして、それ欲しさに砂を掘り返したりすることは許されない。

海の底を網であさるようなことをするのは、ここでは禁物で、そういうやり方で目的を達することは出来ない。

海は、物欲しげなものや、欲張りや、焦っているものには何も与えなくて、地面を掘りくり返して宝物を探すというのはせっかちであり、欲張りであるのみならず、信仰がないことをあらわしている。

忍耐が第一であることを、海は私達に教える。忍耐と、信仰である。

我々は海からの贈り物を待ちながら、浜辺に同化しつつ空虚になって、そこに横たわっていなければならない。

   ↑含 hasutama 意訳

私には信仰はないけど、思考スタイルというものがもし私にもあるなら、
ずうずうしいようだがこれに似ている

でも・・「世界の構造の捉え方」が包括的であることは、すでに信仰なのだろうか?
だがそれは、包括的な世界を認識できない人にとって、それが把握できないから、
そちら側から、その認識方法は信仰と呼ばれることになる

包括的・・全体をおおっているさま

これを信仰という枠内に閉じ込めてしまわずに、思考スタイル、世界認識の範囲としてとらえて
逆に、今一般的に通用している思考スタイル、世界認識を、相対化してみてはどうだろう? 
世界認識の貧しさが、現実の生活をいびつにしているとしたら、
せめてどっぷりと浸かっている状態から、相対化に飛び出せるなら、意味のあることでしょう?
そもそも相対化できない状態というのは、それこそ信仰を表わしている

相対化・・一面的な視点やものの見方を、それが唯一絶対ではないという風に見なしたり、提示したりすること

包括的な世界に生きる豊かさを理解できないから、際限なく浜辺を掘り返すのだろうが、
浜辺の思考スタイルにとって、その背景、源泉とも言える浜辺を台無しにすることがどれだけの損失かということ・・
その計算が出来ない世界認識スタイルそのものの貧しさ、暴力性に気がつかなきゃいけない
 
穴ぼこだらけの浜辺・・悲しい光景である




国よりも先生を信頼出来るかな

「現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心」 ルドルフ・シュタイナー著 より

われわれの公共生活の混乱は、精神生活が国家と経済に依存していることによる。

教育制度並びに公共の精神生活が中世において、それを占有していた人の手を離れて国家の手に委ねられたのは、近世の社会状況にとっては必要だった。しかしこの状態を今日も維持しようとすることは、重大な社会的誤謬である。

国家制度の内部で精神生活は自由を獲得するようになったが、完全な自己管理が許されないならば、これからの精神生活はこの自由の中で、正しく生きることが出来ない。

精神生活はその本質上、社会有機体の中で、完全に独立した分野として形成されることを求めている。



ふーむふむと、ここまでは思うが、

すべての精神生活がそこから発するところの教育制度、学校制度は、教育する人たちの管理下におかれなければならない。国家もしくは経済の分野で働く人がこの管理に介入することがあってはならない。どの教師も授業のために用いる時間を、自分が教育分野の管理者でもありうる程度に留めておくべきである。そうすることによって、教師は教育と授業に心を使うのと同じように、管理にも心を使うことができるであろう。

誰でも、生きた教育実践をしていない人は、指図してはならない。議会もそうしてはならない。かつて教師であったとしても、今はそうでない人もそうしてはならない。授業の中で直接体験したことを、管理の中へも流していく。そのような制度の中でこそ、自然な仕方で、事実に即した態度と専門分野での有能さが最高度に発揮されるのである。



こうなるとなんだか不安な気持ちになる
しかし、そうでないなら教師はただの駒でしかない
駒に育てられるものが駒に育つ
案外それこそが、国家の目的なのかもしれなくて・・
教師の、この力を応援し信頼することが、それをより素晴らしく生き生きとすることにつながり、
そうした教師に育てられる子どもが、より個として素晴らしく生き生きとなるのだ・・と、
それを想像できないなら、国家による介入、統制を素直に受け入れる羊となり、
自分の子どもを子羊として育てることになるのではないだろうか?


なんとなく宇宙人間→私→自分から宇宙人間

お風呂で浮かんだイメージくんたち・・

宇宙は人間であって
今もそうである

しかし、名前がその幸福を断ち切る

私・・と言ったとき、私はママから離れてしまった

その後
私から山が断ち切られ
私からあなたが断ち切られる

私は自分がちっぽけなカケラのように感じて
淋しくなって走り出したの

分けられたものの意識を呼び覚ますことが
知恵の実を食べるということ

君には力がある
各々に蛇が囁く

その一番初めの分断のかなたに、でもその同一線上に今日がある
分断を崩壊と置き換えると
まるで核のエネルギーではないか?

個々のものが自意識を得る時に
持っているエネルギーが目覚め
ある衝動を持って走り始める

このエネルギーを得ることは
蛇の囁きの時点で決まっていたことなのだろうか?

なぜキリストの貼り付けが人間の原罪の贖いになるのか
今までよくわからなかったけど

十字の中心が示されるなら
崩壊への流れが反転するということなのだろうか?

原初の意識にもどることが
ただ後退することなのではなく
十牛図のように
その経過を経たものは
原初の価値を肯定する意識を持ってそこにもどる

はじめにはそれが無くて
ただ無意識に安心していたのだ
でも今は意思を持って全体に一致することを喜ぶことが出来る
そこには大きな違いがある

私・・という呪文が、このツアーの入り口なのである
しかしまだ人類はツアーから帰還していない

地球はそういう学びの舞台として用意されたのだろうか?

自分が出発地点で目指したものを物質化して目の前に見るというのは
どれだけ壮大な実験なのだろう?

ママってほんとにすごいこと考え付く人ですね~





















プロフィール

hasutama

Author:hasutama
神秘学徒hasutamaです・・なんてほんとうは、ただのおばさんです
シュタイナーの著作を読むこと、愛犬をかわいがること、音楽にかかわること、お庭仕事、友人とカフェでおしゃべりすることなどを楽しんでいます

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