認識のさんぽ道

ルドルフ・シュタイナーの著作を楽しみ、 認識の小道散策へ出掛けます
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読書メモ 津野幸人氏「小さい農業」より

筋トレルームでまだ頑張っている夫を待っている間に読んでいたら、すごい洞察だと思ったのでメモメモ・・

この巨大な資本主義体制下で、われわれが日常生活で否応なく直面するのは大衆社会の形成がもたらすもろもろの問題である。資本主義の発展が独占の段階に移行するのに伴い、教養と財産を有する市民階級という同質基盤に立った公衆の理性的共同体が崩壊し、大衆デモクラシーという装いで少数のエリートによる支配が強化されて、大衆は受動的、非合理的傾向を深めていく。社会の仕組みが大きく複雑になり合理的になったのに引き換えて、他方では人間の主体が失われ、疎外され、情緒化される。とくに、知識人、科学者は論理性や職業倫理から次第に遠退き、矮小化された自分の空間に閉じこもり、合理性よりも情緒的思考を強めてきたと思われるのである。この傾向はすでに第一次世界大戦の後で顕著になり、オルテガ・イ・ガゼットは『大衆の反乱』でこれを論じている。すなわち、大衆社会を人間の充満(人口激増)という点から出発し、「大衆とは自らをおしはかろうとせず、皆と同じであることに快感を抱く人間類型」とし、大衆イコール労働者ではないと論じた。むしろ、専門家、科学者を教養の喪失という点から大衆的人間の原型として捉え、模倣欲望の一般化をこそ大衆の本質と捉えた。
このオルテガの鋭い洞察力は正確に的を射ているように思える。現在、、大衆的人間と化した専門家は、その専門性を官僚に切り売りして、それが科学、学問の名で大衆操作に利用されているのである。大衆操作といえばマスコミも同列で、世論を誘導する場合には予見される意見を目的に応じて配置して、それを専門家の口を通して流すという手法をとっている。

こうした大衆社会からの脱出を図り、自分を取り戻すという行為が、現代社会を生きる者めいめいに差し迫った課題として投げかけられているのである。ここに、大衆社会の特質を列記すると以下のとおりである。
1、あらゆる組織の巨大化と官僚制度の進行。
2、大量生産による物財の供給で、生活が画一化・平準化した。
3、マスコミの発達で、間接的接触や経験の世界が極大、拡張した。その結果大衆はメディア環境のなかに放置されるので積極性を失い、受動化して大衆文化や大衆娯楽の激流に翻弄される。
4.・・・・



これが『小さい農業』副題“山間地農村からの探求”・・という著書の中に書かれているなんて!
ヘーゲルまでとりあげつつ農学を語る方が日本にいらっしゃるとは、 
なんとかっこいいのでしょうか!?
津野幸人(ゆきんど)氏の著書をもっと読みたいし、
オルテガ・イ・ガゼットのことも調べたい

でももう今日は眠いです
おやすみなさ~い



 


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しるし/腐った夢世界からの開放点

きつねのお告げ的考察①

参考資料1

~良き戦いとは、我々の心が命じる戦い、夢のための戦いだ。
夢を諦めてしまうと、死んだ夢は我々のなかで腐り、我々の全存在を侵す。
夢を救い出すには、自分自身に寛容になることだ。~
「星の巡礼」より



資料2

徴(しるし) wikiより

人間以外の存在が示した象徴はしるし(徴,signs)と呼ばれて区別される。

宗教的には信仰対象が人に与えたものと理解され、現実に示される予兆や奇跡のほか、啓示や懺悔(の発端としてのひらめき)など、人の精神世界に直接示されるものが含まれる。

聖書には奇跡として多くのしるしが示されている。
またキリスト教でのしるしは神の実在の証と考えられ有意に探し求められるものだった。

古代の祈祷や占いで得る神託・予言は、しかるべき手順を踏んで得た「徴」から意味を読み取ろうとするものである。

供物や音楽・踊りを捧げて儀式を行ったり、命がけで危険な行為をする等は、行為や状況を通して自然そのもの、或いは超自然的な存在から何か特別な「徴」を得る為の手段であり、「徴」を人間が理解可能な「象徴」へと置き変える手法であると表現できる。



(考察)
儀式化した時点で、“しるし”の個人的さりげなさ、日常性は排除されてしまったのだと思う

象徴化されたイメージとしての“しるし”は、個人的な“夢”が、内面の側の道を通って闇に消え、逆に外側からその人自身に向かって出現するものなのではないだろうか?

人間以外の、と言う時、逆に人間は狭い世界に閉じ込められてしまう
本来人間は、物質的なだけの存在ではないのだが、自分自身でそれを把握できる感覚器の無い範囲のことに関しては、「外のもの」と対象化することで把握する試みをするうちに、まるでそれは完全に人間の外側のものであるとしか考えられなくなってしまったのであり、それを把握するためには、神やキツネや神官や、が必要となってしまったのである

きつねにばかされる能力は、「自分に外側から向かってくる自分の夢世界からのノック」をユーモラスに周りの人々と共有する能力なのである

間に神や特権的な人を入れないでキツネを持ってくるのは、親しみが持てるが、ダイレクトな個人的“しるし”を、低い位置においやってバカにしている気もする そうだとしたら卑屈ではないか?

でももしキツネさえ介在させないとすれば、その時にはその能力は日常的な霊視と言えるのではないだろうか
霊視というとおっかないけど、夢見と言ってもいいし、もうひとつの現実、あるいは真実を見ると言ってもいい

“アントロポゾフィー(人智学)”は、「人間としての、知る能力を大切にする学び」だと思うが、その知る対象は、日常に混在している高次の、または低次の、「夢の側」に属するものたちで、それらを理解する試みであり、またその理解を基にした生き方を、この地上で行っていくということ・・(自信は無い・・)

イメージ、夢・・が、外側から私達に向かって来るとしてみるなら
個人的な想像力、感性が大切なのは、外側から訪れる自分自身をキャッチするするためで
もしそれが出来ないなら、「死んだ夢は我々のなかで腐り、我々の全存在を侵す」のである
(この夢のニュアンスは、夢という漢字のとおり、三日月のある天の天井の上に、人間の目が横になって見る、天上の視界において私達が見ているビジョンであって、必ずしも社会における成功という意味ではない)

テレビ、マスコミから流されるイメージの洪水の中、私自身の「夢」に対する感知能力は低くなる
そのかわり、企業の夢が楽しく美しくかわいらしく面白くなだれ込んでくる

占い、信仰、キツネ・・まだそのほうが真実に対して近い位置にいるのである

自分が外側から自己開示することに対して、ダイレクトに感知する能力を筋トレしないなら、自分が世界だと思っている、閉じられたここ=腐った夢に蝕まれてしまうのだ










“しるし”について思い浮かぶこと

「星の巡礼」という本を昔読んだ
著者であるパウロ・コエーリョさんは
「しるし」というものが人に進むべき方向を示してくれる
ということを、ひとつのテーマにしているように思う

いったいどうしたらいいんだろう?
決意はあっても、どうしていいのかわからないまま日常は過ぎる
そのとき、例えば黒い犬が現れる

「ねえ、これは“しるし”なの?“しるし”じゃないの?」
グルみたいな人がいて、何か言ってくれることもある
私はグルです・・と言って登場する人ではなくて
単に通りすがりの誰かが、ヒントをささいてくれるのかもしれない
とにかくはっきりした言葉では、何も表わせないのである

“しるし”は、
誰が見ても驚くような奇跡じゃなくて
日常の、見過ごしてしまうような小さな出来事でしかない
でもそこで、あれ?と思うなかに“しるし”の“しるし”性がある

時間が関係している
しるしが種だとすると
それを意識してみることで
その意味が発芽する

まるで夢が、この世界にはみだして来るみたいな

それとも夢とこの世界が、
実は一体だということに気がつき始めるような?

“しるし”という字も面白い

個人的に「し」は、「通り抜ける」ということを表わすと思っていて
「る」は、主体が何かをする、動態を表わすのではないかな

「しるし」は、しを作用させ、またもう一度通り抜けて止まり、
その後の行動は、しるしを見たものに任される

あ~そうだ、これから出かけるのです
ではまた





え~、つまりこういうことではないか?

自分はぐるぐる回るくじ引き装置から、
ポロっと答えの玉が飛び出してきて、
それを見ればいいのだと、対象化して考えていたのである

しかし実際は、自分が玉だったのであって、
目が回っていたのは、そのせいだった

私は玉自身として、飛び出していった

どこに?

多分、この地点に

何か前と違うかな?

違うことに心当たりはある

でもその話はもうちょっとこの地点に慣れてから

つづく・・

「しーん」・・中。

ごぶさたしています
何か書こうと思っても、全く何も思い浮かばなくて・・
「しーん」・・としてしまっています

でも、そうだ!諦めてその状況を書いてみましょう

ちょっと前までは頭の中に、せめて疑問符ぐらいはあったと思うのです
でも近頃は完全にカオスに突入しています

何かとっかかりを求めようとしても、
虚空に手を伸ばしているような
上下左右も無いみたいな・・

こーゆー状態は不安定で焦ります
あ~もうアーリマンの一部になりそう

「放射能とは何か?」を読んでみたら、
わからないことが多すぎて、理解しようと努力してみたものの、
いまだにイメージがわかないシュタイナーの宇宙の話や、
高次の世界や低次の世界が出てきて
かえって混乱してしまいました

経過としましては・・
ぐるぐる目がまわるうちに、
回転が一つの点に収斂しちゃって
そこから全然知らない、
なじみの無い虚空に放り出されてしまったのです
(イメージです・・

子どもが小さい頃、一緒に楽しんだ絵本を思い出します

もこもこもこ (ぽっぽライブラリ みるみる絵本)もこもこもこ (ぽっぽライブラリ みるみる絵本)
(1977/04/25)
谷川 俊太郎

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何も無いところに、「もこっ!」と何かが出現
しばらくしてまた何かが出現、「にょきっ!」と

mokomoko.jpg

その後「もこ」はみるみる成長し、どうなるのやらと見守っていると
突如「にょき」をパクっと食っちまいます

そうまでして限界まで成長した「もこ」は
ある日「パチン!」とはじけ、
空間に向かって、くらげのような無数の断片に分かれて解き放たれます

その場面には擬音はついていないけど
勝手に「しゅー、しゅー」と言ってしまう

「しゅー」のくらげが飛び去ってしまうと、
はじめの何も無いシーンにもどり
「しーん」となる(ダシャレじゃなく・・)

ところがまた、小さな「もこっ・・」が産まれます




うる覚えなうえ、下手な説明でわかりづらいと思いますが
すごく哲学的な?神話的な?絵本でしょう?
これを子どもと楽しめたことに、今さらながら感謝します

何も無い「しーん」が、案外重要なのかもな~
と、今の自分に都合よく、というか、
今の自分から受け取れるものを受け取るべく
妄想を膨らませてみます

「しーん」の虚空に対し、
そこに充満しているものがある・・と考え
「カオスに対して、宇宙的諸力が働きかける」
という、シュタイナーの言葉のイメージをあてはめてみます

空間や大地も、予感に満ちてイメージするんじゃないでしょうか?
そして大地が身ごもる・・

意図せずして身ごもるものは何なのか?
考えるより・・

真剣に「しーん」としてみれば、
「宇宙的諸力」と「地球的諸力」の協働により、
きっと「もこっ」と出てくるでしょう・・

おわり






プロフィール

hasutama

Author:hasutama
神秘学徒hasutamaです・・なんてほんとうは、ただのおばさんです
シュタイナーの著作を読むこと、愛犬をかわいがること、音楽にかかわること、お庭仕事、友人とカフェでおしゃべりすることなどを楽しんでいます

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