認識のさんぽ道

ルドルフ・シュタイナーの著作を楽しみ、 認識の小道散策へ出掛けます
TOP ≫ ARCHIVE ≫ 2011年07月
ARCHIVE ≫ 2011年07月
       次ページ ≫

≪ 前月 |  2011年07月  | 翌月 ≫

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
スポンサー広告 | Comments (-) | Trackbacks (-)

「くるみの木」 シューマン

声楽で、次のドイツリートが決まりました
くるみの花々に見守られながら
やわらかい風に包まれてまどろむ少女のための
優しくかわいい曲です




くるみの木

家の前に一本のくるみの木が繁っている、
良い香りで
爽やかに
葉のついた枝を広げている。

たくさんのかわいらしい花が咲き出でて、
穏やかな
風が吹いては
それを優しく包み込んでいる。

花々は二つずつ対になってささやき合い、
頭を傾げ
身を屈めて
愛らしく優雅に口づけをを交わしている。

花々がささやくのは一人の少女の事、
彼女は想いにふける、
夜も
昼も、ああ 自分でもそれが何なのかわからない。

花々はささやく-でも誰が気づくだろう?
こんな小さな
声に-
ささやいているのは花嫁の事、未来の事。

少女は耳を傾け、木はざわめき、
見つめ
思いをはせ
微笑みながら眠りと夢の中に沈んでいく。



スポンサーサイト

ハンガリー田園幻想曲 



フルートと管弦楽のための曲
はじめはちょっぴり物悲しいメロディーが
尺八の節にも似ている気がして
心にしっとりとしみてきます
それがハンガリー独特の節回しなのかどうか
私にはわかりません

途中からすがすがしく大らかな雰囲気になり
気持ちの良い空気や風や、大地に守られて育つものたちの喜びが
生き生きと伝わってくる気がします

フルートは、こんなに色々な表現が出来る楽器だったのですね

去年の今頃だったかな、
作曲家氏と「オーケストラ」という映画を見に行ったのは
その中で使われていたチャイコフスキーのバイオリン協奏曲も
スラブ民族の情の深さや、激しさ、哀愁などを感じさせるもので
映画をきっかけに、作曲家氏が薦める「協奏曲」というものを
聴いてみるきっかけになったのだったっけ

協奏曲は、楽器と楽器の掛け合いというか、
メロディーの誘い合いが素敵なのだな~と
自分なりの聴き方がわかって、やっと楽しめるようになった

まだ彼の薦めてくれた協奏曲で、聴いていないものもあるのだけど
話が出来るよう、少しずつ聴いてみるからね!





「木漏れ日の家で」

映画を見てきました



私としてはとてもお奨めです
でも、客席の中には大いびきで寝ている方もいました
退屈に感じる人もいるかもしれません

アニェラという主人公と、愛犬フィラの
廃屋に近い、古い家での生活

モノクロの映像が美しいです

私は古い家が好きなので
家の映像を見るだけでも嬉しかった
朽ちるものの美しさというのもあると思います

物が燃えるときには、それは一瞬で行われてしまうけれど
時をかけて滅びていくときにも、その炎は
物のまわりに少しずつゆらめいているのかも
きっと・・それがとても美しく、心惹かれるのです

今職場で、私よりずっと年上の女性の先輩と
過ごすことが多いのですが
若い人に負けないくらい、純粋で、負けず嫌いで、
情に厚く、チャーミングな方で・・

実は、最初は、大喧嘩をしたことが何度かあったのですが
今ではすっかり仲良しで
どんな時でも、絶対に理解してくれて、
守ってくれる、頼もしく尊敬できる大先輩です

その方のこととだぶって、
思いというのは、年齢と共に
現実から遊離するほどに
深まり高まって、それだけで独立した生き物のように
肉体とは別の意思さえ持っていくのかもしれないと
想像してみました

アニェラの思いが現実の受容力を超えて
突き抜けていくときにまわりが
形骸化していくのは
彼女がまゆから抜け出す蝶なのだから
かえって必要なのではないか?とか・・
最後には少し干からびたからが残ることになるけど
それは尊いことだと思います

その入れ物が朽ちていくときに
命は少しずつ分離して
白の、光の中に溶けださなければならなくて
逆に私たちは黒の、死の世界に本当はいるのではないかとも感じます

光が無いなら、暗黒の世界
それがここなのであって

家が新しい命を受け入れるときに
彼女は肉体からも家からも
抜け出していったのだと私は思いました

あとでネットで調べたら
ハンガリー田園幻想曲という曲が
ずっと流れていたそうなのですが
ストーリーに夢中になっていたのか
まったく気がつきませんでした
予告編では、フルートがとても美しく響いています
CDを注文したのでじっくり聞いてみたいです


三分節化のこと

歩いていて気がついたこと

首から上と首から下という区別以外に
体の認識があいまいだった

胸部と腹部・四肢は、いっしょくたになって意識されていた
つまり二分節の状態だった

でも、ふと胸部と腹部の区別を感じたので
より意識してみたところ

脚の構造のうち、膝の使い方について
そーか、本来こうすればよかったのかと気がついた

効果をまとめてみると、

胸部では、呼吸が大きく出来るようになり
(今まで息が吸えない気がして酸素不足だった

おなかはおなかで、呼吸に対してもポンプへの圧力のように
協力できるようになり
(ついでにおなかが引っ込みそう)

骨盤や脚は自由になって、
関節が柔らかく使えることに気がついた

独立していたほうが機能する
全体としてもうまくいく
そういうことが他のことにも応用できる?

実は、シュタイナーは
社会の三分節化をとなえていたけれど
そうじゃなくてもシュタイナーの言っていることは理解しにくく
そこまで興味が持てなったため
社会に関する本は積読状態になっている

シュタイナーの説は・・

人間の体が

神経・感覚系(頭部領域)
呼吸・循環系(胸部領域)
代謝系(四肢・腹部領域)

に分かれていて、それぞれが独立して働きつつ
全体として機能しているように

社会でも、

「精神生活」
「経済生活」
「法・国家生活」

が、それぞれ自律的に働かなければならない
すると、その社会が有機的に機能する
ということらしいのだが
その詳細については、よくわからない

彼の三分節化について理解したら
もしかして肉体的にも素敵になりそうな?
節のない身体にも
暴走する社会ともさよならできるとしたら嬉しい
ぜひ学んでみなくては




科学の発展のこと

職場までは百歩あるかないかだが
歩いているときに
骨のことや、色々なことを考えた

骨盤があって
足が関節でぶら下がっている
それは可動性を持たせるためで
だから上半身が前に出るなら
骨盤はついて行き
足は自然と振り子運動をして
力を入れなくても
歩くことになる・・

吉本隆明さんは、
人間は科学を発展させていく
だから原子力にも後退はありえないと言ったそうで
吉本さんを尊敬するだけにちょっとショックだった

でもそれは、
発展という意味の行く末への展望が
狭いのではないかと思えた

発展というのは
物質で閉じたものなのかな

物質は物質であることだけでは満足しないで
有機的になること
意識的になること
意思を持つこと
と発展していくのでは?

部分的に物質的でありすぎることこそ
発展を阻害するのではないだろうか?

一歩歩くごとに
骨の関節が利用される
骨の構造があるから
私は立って歩くことが出来る
でももし私の骨が
自分のことばかり発展させようとしたら
私という有機体は
私の意志を遂行するには
不都合なものとなったでしょう?

これって説明になってないな~

あ~、うまく考えられない
発展の前後はどう決まっているのかしら?

普通に考えれば
私なんて
後ろ向きに発展しようとしているのかもしれないのだし
わからなくなってしまう

とにかく私には吉本さんの発展という考えが
化石のように思えるけど
今それをうまく説明することは出来ない





プロフィール

hasutama

Author:hasutama
神秘学徒hasutamaです・・なんてほんとうは、ただのおばさんです
シュタイナーの著作を読むこと、愛犬をかわいがること、音楽にかかわること、お庭仕事、友人とカフェでおしゃべりすることなどを楽しんでいます

FC2カウンター
FC2カウンター
現在の閲覧者数:
Powered
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。