認識のさんぽ道

ルドルフ・シュタイナーの著作を楽しみ、 認識の小道散策へ出掛けます
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おさんぽと妄想

昨日はお休みで、お昼にはお日様の光が暖かそうだったので
川べりを愛犬と一緒に散歩しました
小さな草が生え始めて、桜の枝には蕾の膨らみがありました

鴨の子どもたちがたくさんいて、
バッと音をさせて急に羽ばたいたり
水面滑走してみたり、かわいかった

途中しあわせな気持ちで歩いていたら
ふっと頭に浮かんだことがあって
このブログに書いたことから、
頭の中で刺激されたイメージが連なって
まるで、外側からこちらに向かってきたような・・

変てこな妄想たち↓

人間は言葉を持ったけど
言葉を持たない動物は、言葉からこぼれ落ちた思いが
存在化したようなものなのではないだろうか?
動物の思いが下等なものだとは思えない
そうではなくて、あるひとつの思いに
純粋に身をささげた姿なのではないかしら?
人間は、色々なものをバランスよく拾い上げ、
切り捨てて、今の存在になったのではないだろうか・・

とんでもない犯罪を犯してしまう人は
人間社会の文脈からはみ出してしまう
法律で、はみ出した存在として整理されるときには
裁判で色々なことが言われても、その人の物語の
一番初めから話が始められるのではない気がする
やったことに対して、きちんと罰せられて責任を取らなければならない
それはもちろんだけど
犯罪者は、どうして人間社会の脈絡からはみ出すようなことになったのだろう
厳密に見て、どこの部分がはみ出してしまったのだろう?
それがわからないまま、事件が終わってしまうことはないのだろうか?
その人は、自分のはみ出したところを自覚できるのだろうか?
その人の中で、その部分は独立した存在のように暴走して、
自分の力だけでは止められないものだったとか?

もともといがみ合っていた職場で
はじめにそれぞれが持っていた色々な思いは
言葉にならないくらい純粋な、何かしらの思いだったとか?
純粋培養の、愛だったかもしれないし、憎しみとか
妬みだったかもしれない
それが話し合いでちゃんと、仕事に沿って
必要なものへと整理されたのだが
そのときに、はじめあった思いは
いいものも悪いものも、過剰なものは捨てられて
規格品になった気がする

切り捨てられた思いの部分はどこに行くのだろうと思う

それが独立して一人歩きして
どこかで生き物のように動き出して
だれかを犯罪に走らせるとか・・?

太陽の光に照らされなかった部分は
月あかりの世界で生きはじめて
夢の中からこっそりと
人の中に入り込むのかもしれない・・??

な~んて、妄想していたら
あっという間に家についてしまった

久しぶりの運動で(歩いただけ
脳の変なところまで、血流が良くなったのかもしれません




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共感的な対象思考=愛・・?

昨日書いた職場のことに関して
また朝起きてすぐに、
色々なことが頭の中に浮かんできた

ただのパートなのに、
家でまで労力使うことも無いのだけど
でも、自称神秘学徒としては、
日常のいろんなことを
自分に与えられた、修行のヒントとしてみるのは楽しいことです

もし、個々の人の思いを、
その人と一緒に生きていたつもりになって
体験し味わってみるとしたら
そういう作業は、
その人自身をとても霊的に進化させることと
シュタイナーは言っていた気がする
(「霊的な進化」という言葉も、
意味ははっきり分からないですが・・)
とにかくそんな姿勢があったら、
話し合いの場で、人の言葉のとらえ方は
違ってくるのだろうけどな~

でもその姿勢が、はじめからあったなら
話し合いの必要も無かったのだろうし・・
簡単に言えば、よく言われるように、
想像力が大事だね~って話で

話し合いの席での言葉のやりとりが、
お互いの想像力の欠如を補ったり、
育てたりするきっかけとなるならいいのだが
また言葉尻をとらえて、
人を攻撃する材料としてしまうこともあります

そのへんは、焦らず、
方向性を定めておいてみたらどうなるだろう?

自分自身の気付きが、世界にどのように反映するか?
私なんていう小さな存在が思ったことは、
どんな風に反映するのか、まったくしないのか
車の教習で、教官に
「遠くを見てください、見ているほうに進みますから」
と、言われたことを思い出し、実験してみる・・

自称神秘学徒な私として
(これいちいち言わないと、自分でも忘れるので・・
今回のことでもっと学びたいと思ったのは
ゲーテの、共感的な対象思考についてです

ゲーテは、対象を愛することで、
対象が自分に秘密を打ち明けてくれると感じ
シュタイナーは、そのゲーテの対象思考を推し進めて
人はその対象の本質世界にまで
(それは霊界でもあるらしい)
トコトコと歩いて入って行けると言ったのだったような・・?

調べたら研究材料はたくさんあった
シュタイナー教育で取り入れられている
ゲーテの観察方法も、調べてみたい
そして春に向けて、
お庭の植物観察にもつなげてみようかしら?



~以下、自分用研究資料~

>
「他の観点と比較したゲーテの思考方法」
「ゲーテの形態学とギュンター・ミュラー」
「ゲーテの形態学的思考」







言葉の迷路で、迷子になる心のこと

職場のことを書いてみようかと思います

このごろよくミーティングが行われて
私はたいてい、書記を担当しています
今日も朝からミーティングがあり、
長年懸案だった問題に、初めて解決の糸口が見られた気がしました

以前はミーティングではなく「口げんか」とか「悪口」、「意地悪」などが
横行しており
最近になってやっと、徐々に言語化が行われています
これ、まるで動物から人間への進化過程のようです

そして、今日は非常に人間らしく話し合いが行われ
意志の疎通をきちんとはかって、前向きに協力していこうということに
なりました

それで私は、前よりは良くなったなと思って、少し嬉しく思いました

ところが・・私の大好きなFちゃんは、深いため息をついていました
どうして?と考えてみたら・・

たしかにな~
私は言葉が好きなところがあって、こころのモヤモヤが言語化されて
きちんとした形でやり取りされること自体に、嬉しくなるところがあります

でも、はじめからごく自然に相手を思いやり
信頼関係、優しさの中で仕事をしている人たちにとっては・・

そういう人はどちらかというと、そんなに自己主張するタイプではないし
もし、気持ちがあれば単純に自然に行えることが
なぜそこまでしなければ出来ないのかということに
ただただ、悲しい気持ちになってしまうというか・・
上手く説明できないですが・・

法律化する、形式化する、言語化する・・って、何か似ているところあるかな
その時に、抜け落ちてしまうものがあっても、気持ちがないなら
きっとずっと分からない、伝わらないことはあるのだろうな
でもそれで、終わりとか解決ということになってしまう

Fちゃんの、うなだれた肩や悲しい目を思い出すと
自分自身がちょっと嬉しく思っていたことも
出来事のうわべを見て、
言葉でかたをつけたように思っていただけなのかなと反省入ります

でも、それをまたこうして言語化しているのだからまるで迷路です
言語は、利便性のあるツールだけど
常に抜け落ちていく部分を見つける努力をしないといけないものなのかも

それに比べて、共感能力というのは
言語化しなくても、
たくさんの情報を、いっぺんに受け取ることが可能なものなのかもしれない

ゲーテは、測定の道具がなくても
真理は対象を愛することによって、おのずと明かされるもの
こちらに流れ込んでくるものと言っていたのだっけ?

そう考えると、よく言われるように
愛することは自分自身を豊かにすると言えるのだろうな

その点、全然まだまだな私です




ずっと胸の奥で・・♪

このごろ、このFC2ブログで、
色々な方のところに遊びに行かせていただいて
コメントさせていただく勇気がないことのほうが多いのですが
同じ一日を、それぞれの方が、その思いとともに
丁寧に過ごしていらっしゃるのだということが
とてもよく伝わってきます

その印象の、全体性のようなものが
何かの瞬間に、急にいっぺんに思い浮かんで
嬉しいような悲しいような、不思議な気持ちになるときがあります

先日は都会の雑踏で、スクランブル交差点を渡っている時に
あ~、今こうして交差点を同時に横切っている人の中にも
FC2ブログの人がいるかもしれないけど
お互い顔も知らないのだな~と思ったのですが

次の瞬間、胸の奥から
生きているものは、みんな心の奥でつながっている
(ジュピターの歌詞?
その温かみを、私は知っている・・とでもいうような
不思議な感覚がわきあがって
急に嬉しくなって、独りでニコニコしてしまいました

ブログの記事でたくさんの方の思いに触れたせいなのかしら?
あまりそういうことを思うほうではないのですが
「思う」というより、その感覚が私を包んでくれたような気がします

頭では判断をしていても
ハートでは熱を感じている
体はスクランブル交差点を渡っている

人間て不思議です











親子で横道・・

早いもので、もう一月も17日ですね
2月早々高校受験だというのに、焦る気配のない子どもを見ると
だんだん、嫌味しか言えなくなってきます・・

「もう・・準備万端なのね」とか
「食べるときだけは、一生懸命になれるのね」とか

「面接の練習しなくて大丈夫なの?」とストレートに聞いてみると
「わかってる!」と・・一時とりかかる気配なのですけど
しばらくたってふと見ると、もうテレビの前でごろ~んとなっていて
ケラケラ笑っていたりします

あ~もう知らない

私のほうは、小泉八雲の対訳本をゲットして
原文の雰囲気もつかんでおこう!と、わからないなりにも読んでみて
思ったのですが・・
ちょっとショックな出来事がありました

原文を見て、なぜ今まで気が付かなかったのか
あたりまえのことですが・・
翻訳の文が、しっとりとして素晴らしい日本語で
だからその文章の雰囲気まで、
小泉八雲本人の文章と思い込んでいるところがあります

でも原文の英語を見ると
英語だけあって、どっちかというとクールな語感で
さばさばというか・・

私は訳者の平井呈一さんの文も、かなり好きなのかも知れないと思いました

もし、日本人の文章で好きなのは?と聞かれたら(・・答えられるほど読んでいるわけではないけど
なぜか・・写真家の星野道夫さんのエッセイの文章と
小泉八雲の平井呈一訳文かもしれないです

でも平井さんのことは、全然知らなかったので
なんかそれ、すごく気持ち悪いと思いました

そのことがけっこうなショックで
しばらくの期間、ガ~~ンとなっていました

そこでちょっとそこから離れて
ゲーテのイタリア紀行を図書館で借りてきて読み始めました
これは、面白いです!
あ、でもこの訳文もなかなか素晴らしいのかもしれません
もう、わけがわからないです

もっと語学ができて、日本語と同じように読めたらな~
素晴らしい訳に感謝しつつも・・

熊本への準備は、全然はかどりませ~ん

プロフィール

hasutama

Author:hasutama
神秘学徒hasutamaです・・なんてほんとうは、ただのおばさんです
シュタイナーの著作を読むこと、愛犬をかわいがること、音楽にかかわること、お庭仕事、友人とカフェでおしゃべりすることなどを楽しんでいます

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