認識のさんぽ道

ルドルフ・シュタイナーの著作を楽しみ、 認識の小道散策へ出掛けます
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輪郭線のこと・・「Circumference thou Bride of Awe」

Circumference thou Bride of Awe
Emily Dickinson
1620

Circumference thou Bride of Awe
Possessing thou shalt be
Possessed by every hallowed Knight
That dares to covet thee


前に書いた輪郭線を描くという記事を、あらためて見たら
・・と言うのも、「エミリー・ディキンソン」「輪郭」と入れて検索したら
自分の記事が出てきて、めちゃ驚いた
読んでみたら
そこに書いた自分の詩のとらえ方は違うのではないかと感じ
また考えてみた

・・だからと言って、正しい解釈ができるかわからないし
そもそも、詩に正しい解釈とか・・意味ないですね

この詩は直訳すると、正直、何が言いたいのか全然わからない

以前記事にも書いた
武満徹さんに対する大江健三郎さんの追悼文の中で
この詩に出会ったのだが
追悼文の中で、この詩の中に出てくる「周縁」は
尊重すべきもののように書かれていると感じたものの
しかしディキンソンさんの意図は、よくわからないまま

それがちょっと今回ピンと来るものがあって
大胆にも、訳してみました↓

縁どり・・なんじ、「畏れ多きもの」の「花嫁」よ
もしも、そなたを身に付けることが出来たなら
あらゆる男爵様がたの栄誉にも
ひっついていられるようになるはずだ
そこで、身の程知らずにも
なんとかそなたを、ものに出来ぬかと恋焦がれる


↑hasutama超意訳・・
(「周縁」を「縁どり」にしました レースの縁どりを想像すると花嫁っぽいかしら?と・・)

Possessed by every hallowed Knight
この一行がよくわからない・・Possessと、Knightが・・

でも、とりあえず・・ディキンソンさんの人生を考えれば
訳はこのようになる気がする

「周縁」の、その「線引き」でありながら、「格付け」であるような
人を拒絶する偉そうな性質を
彼女は好きではなかったと思う
それはまるで、水戸のご老公の印籠で
「控えおろ~」的なものに感じられたはず


でも、以前は、線引きは気高いもので
距離感があったほうがいいよね・・と、とらえていた
ディキンソンさんが、どういう境遇の中でどのようにそれを捉えていたのか
気付かなかったし
彼女の魅力である、深い痛みを伴ったユーモアたっぷりな皮肉も
見付けられないままで

なぜ、あらためてこの詩を思い出したかというと
「神秘学遊戯団」さんというサイトで
シュタイナーの言ったことを読んていたら
「認識」について
線引きし、輪郭線を付けて外側から批評、批判するのが、現代のやり方だが
その奥底にあるのは
「人は皆、自分のようになるべきだ」
という考えだ、という話があった
(う~、きっついけど確かにね~)

これは前にも読んでいたが、あらためて読んでみると
「輪郭線」に対するこのような解釈が
シュタイナー教育でよく見かける
ボワ~とした「にじみ絵」に反映しているように思って面白かった

そして、その「線引き」や「輪郭線」が、意味するもの
冷たさや拒絶感、賢さを装った自己中のアホらしさを
シュタイナーもディキンソンさんも
同じく感じ取っていたことに驚く 

それに、リンクをはらせていただいている
尊敬する房さんの記事「木を知るには森を知り」を拝読し
なおさら納得が深まりました
(房さんいつも有難うございます)

そのようなことが積み重なって・・

ず~っと意味不明「?」に思っていた
ディキンソンさんの詩の意味に「!」が来てくれた~
(あっているのかどうかは、わからないですけどね)

でもな~
それだと、武満さんや健三郎さんが言っている
「周縁」を大切に考えるとは、どういうこと?

またあとで、もう一度よく読んでみましょ



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個我と蝶

シュタイナーの本をいつも一冊はバッグに入れているから

ほんのちょっとした時間にも読めて

何かを待つことは全然苦にならない

今日は「美しい生活」というのを読んでいたら

それこそ、とても美しい表現に出会った

(風濤社 西川隆範さん訳)

p166~

「個我」

みなさんが自分のことを「私」と言うたびに
みなさんの額に小さな炎が輝くのです

私が自分のことを「私」と言うと
私は自分の中に光を呼び出します

私が自分のことを「私」と言うとき
蝶を彩色するのと同じ光を
自分の中に呼び出します

古代ユダヤには「ヤハウェ」という言葉がありました
この言葉は「私」と同じ意味です

司祭は「ヤハウェ」と発音するとき
いたるところに飛び回る蝶をイメージしました

蝶が見えたら、正しい内的な力を持っていたのです

「光は個我である。
 光を閉じ込めると、蝶を作ることができる。
 私達の脳は、蝶の代わりに思考内容を作るのに適している。」

 と語ると「この人は気が狂っている」と人々に言われます。

 しかし、これは本当なのです。

「私達が空中に色あざやかな蝶を見るとき、
 私たちが自分のなかに個我を感じて
「私」と言うときと同じものが、私たちに作用する」
 と言わねばなりません。 

たまにはそうじだワン♪

日記的なこと書いてみようかと思います

気持ちが何となく焦っています

何をやらなければならないのか?

きっとあるのですけど

はっきりとしてこないので

もやもやとしているところから

つかんでこなくては~~!と

じたばたします

(これは神秘学的な時限の話)

シュタイナーの本に書かれていることにしても

ほとんどわけがわからないので

こうかな?ああかな?的な

妄想が膨らんだところだけ

少し自分の中に取り込めた気がしてくる・・

そして一人合点している

というだけのことです

妄想遊び的な・・

でもそれにもかかわらず、

なぜかすごく面白いので

なぜ面白いのでしょう??

それでけっこう真剣に遊んでいます

ヘッセの本に「ガラス玉演戯」??とかいうのあったな

読んでいないけど

どんな話なのだろう?

ガラス玉遊戯の達人が出てくる?

これは超高度に精神的な遊戯であり

この遊戯で達人の域に達したものには

名誉ある称号が与えられる・・

みたいなの、面白そ!

そばに横たわる犬が呆れている気がする・・

部屋は本が散乱・・庭の草も木も伸び放題!

魔女の家っぽくていいような気もするけど?

たまには掃除でもしようかしら・・?




「神智学」 より ~魂の働き~

シュタイナーの基本書「神智学」を、
パラパラとめくっていたら
今の自分的に、「お!」・・と
思えるところがあったので
引用してみたい

ちくま学芸文庫 高橋巖さん訳で
p72

魂が現在と持続の間におかれているのは、
魂が体と霊の中間に位置づけられていることによる。

しかし魂はまた、
現在と持続との仲介もする。

今あるものを記憶に保持する。

このことを通して、
魂は今あるものを無常界から切り離し、
魂の霊的部分の持続の中に取り込む。

魂はまた、
時間に制約された、
無常な存在に永続の刻印を押すが、
それが魂にできるのは、
魂が一時の刺激の中に埋没することなく、
自分のほうから積極的に事物に働きかけ、
その行為の中で、
事物と自分の本質とをひとつに結び合わせるからである。

記憶を通して昨日を保持し続け、
行為を通して明日を準備するのが、
魂の働きなのである。




魂が現在と持続の間におかれているのは、
魂が体と霊の中間に位置づけられていることによる


これ面白い発想ですよね

瞬間を永遠へと移しかえる魂の働き

せっせせっせと魂は・・

感じ取った印象の中で、埋没してしまうだけでなく

自分のほうから積極的に事物に働きかけ、
その行為の中で、
事物と自分の本質とをひとつに結び合わせる


ということもできる子で

ほんと、けなげないい子だな~

「事物と自分の本質とをひとつに結び合わせる」

これは、つまり「物質的なもの」と「霊」を
結びつけると言ってもいいのだろうか?

そんな・・大胆で大変なことを
自分からやろうとするなんてね!

魂を少しバカにしているところがあった私
受け身で情けないヤツ!だとか思っていましたよ~

実は、
魂はすごく頑張っていたのだな・・

知らなくて、ごめ~ん!

これからは、もっと
魂くんを大切に考え、慈しんで
その働きを応援してあげたいです

宇宙のオーケストラ?

「オーケストラ」という映画を7月の始めに見て
 感想を書いてみたいと思っていました

感じることが、時間とともに変化します

始めは・・何か、すっきりしない感じで
こう思いました

オーケストラでめぐり合わせた人達に
それぞれの人生、物語があり、その時々の思いがある
それがひとつの曲の中で音として出会うこと
それはすごく面白い

でも、たとえ歴史的な時間の中で
ある曲を演奏している瞬間に
人生を狂わせるほどの悲劇に見舞われ
それが忘れられない曲となってしまったとしても
そのことに対する思いと
音楽表現をごちゃごちゃにしてしまっていいのだろうか?

悲劇的な事件に対してのこんがらがった思い
そのなかで見失ってしまった自分を
何とか取り戻したい
そんな個人的な思いの中で
音楽しようとすることは
何か違うのではないか
もっと、音楽そのものの中に帰依するべきではないのか?

それに・・
そんな感情よりも
どんな歴史をも乗り越えていく、スラブ人の血の中にある
燃えるような情熱、生き抜いていくたくましさ、
無骨でまっすぐな気概、情の深さ・・等々
のほうが面白い

そんなことあれこれ考えていて
そのうち、こう思いはじめました

曲は生き物で
シュタイナーが人間について言うように
物質体、エーテル体、アストラル体、のようなものがあるのではないだろうか?
音、生命、魂、霊・・

物質、生命、魂は、もし素材として一ヶ所に集合したとしても
それぞれが孤立しバラバラに機能していては
音楽の精神を表現することは出来ない
石、植物、動物が、自分から芸術することは無いのと同じで

全体を結びつけ目的を明確にする意図とは何だろう?
それは「霊」なのではないだろうか?

もしも「霊」の息吹を与えられた人間が
その主題を提示したなら
それぞれは、全体の意図を完全に理解し
喜んで部分として奉仕できるようになるのではないだろうか?

映画の中でオーケストラは
母の演奏のレコードから曲の精神(霊)を受け取ったバイオリニストによって
提示された音の輝きの中ではじめて
意図を理解し、有機的なまとまりを持って息づきはじめ
調和が生まれ、美しく人の心に届く協奏曲を奏でることができた

その霊のためにこそ
母は、危険な状況の中で
曲を演奏することを選んだのではなかったか?と思う
そういう状況だからこそ、そうしたかったのかもしれないし・・
シベリアの獄中にあっても
その霊とともに生き、死んでいったこのバイオリニストだからこそ
その演奏が、この世のものとも思われない
忘れがたい演奏となったのだろう
その母と一体化した「霊」を
娘はレコードから感じ取り、引き継いで
演奏に生かすことが出来たので
オーケストラは再び、音の輝きを取り戻したのだ

様々な、個々の思いを越えて、崇高なものに奉仕することができるなら
きっとそれが一番嬉しいということを
みんなどこかで知っていて
それを感じるときに、何だかわからず感動してしまうのではないだろうか

人間だけが、曲の意図を理解し提示することが出来る
思いの中に埋没するだけでなく
全てのものに霊(精神)を浸透させる
あるいはそれに光をあて
霊という繋がりに気がつくこと
石や植物や動物に対してそのようにして
ハーモニーを完成させていくこと・・??

何を言っているのかわからなくなってきたけど

宇宙の音楽を、地球として奏でようとするときに
人間が出来ることについて
この映画からのインスピレーションでわいた
イメージでした~









プロフィール

hasutama

Author:hasutama
神秘学徒hasutamaです・・なんてほんとうは、ただのおばさんです
シュタイナーの著作を読むこと、愛犬をかわいがること、音楽にかかわること、お庭仕事、友人とカフェでおしゃべりすることなどを楽しんでいます

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