認識のさんぽ道

ルドルフ・シュタイナーの著作を楽しみ、 認識の小道散策へ出掛けます
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あなたは境域の守護霊さん?

境域の守護霊さん・・
すごいネーミングですが・・

この方は、神秘学徒がある地点まで歩んで行った時に
ある境界から外へ踏み出す際に立ちはだかる方なようです

この話は面白いけど、いまひとつピンと来ないものです

この方はとてもおぞましい様子をしているようなのですが
実は今までの自分自身の姿なのだそうで
そういうものに、自分が対面させられるということのようです

自分の過去おばけみたいなもの?

・・・て、どうしてこの話をするのかといいますと
今自分が実生活で出会っている現実の方が
なぜこんなにも私の前に立ちはだかるのかしら?
・・と、思っていたときに思い出したのが、この境界の方のことです

基本、神秘学徒にとって現実の生活は、自分自身の鏡のようなものだと思うので
仮に、その視点に立って見るならば、もしかしてそうなのかもしれないと思ってみて、
その出会いに対する、自分の中の責任を考えてみたいです

でも、もしそうなら、自分は今どこからどこへ踏み出そうとしているのか?
ということも問題になってきます

で、ちょっと予測しているのは
自分=非自分みたいな、そういうことが楽しんで出来るところへ
入っていけそうな気がしていることです
だからこのことは、少し積極的に取り組んでみたいテーマです

というのも、その立ちはだかる方は常に、非自分を恐れてまわりを批判したがる方で
それがあまりにも度を越しているので、みんなに呆れられてしまっていますが・・

自分ではすごく世のため人のため、真心と真実で生きていて
信心ぶかいつもりで、神様のお札まで職場に持ってきて(ちょっと、こわいです・・)
自分には神がついている・・・って

そういうところは、多かれ少なかれ誰にでもあるのかもしれませんが・・(?)
誰しも自分がかわいいし、人のためになっていると思いたいし、
つらいときには神がついていると思いたい

でもいくらなんでも、みんなが全部悪くて、自分は全部正しいと
そこまで勘違いしてしまって、そのうえ神がついていると思ってしまったら
かわいそうだけど、漫画になってしまいます

あ~もしかしたら、これが過去の自分の姿のカリカチュアなのか?みたいな
ちょっと、心当たりが無いでもなく・・
シュタイナーみたいなものを読んでる人の陥りがちな・・
もしそうだとしたらショックだけど・・

もし、私がそれを直視してみることができるなら
そしてそれを越えるものを自分の中に築くことが出来るなら
その方はその悲しい役割を終えることが出来る・・??

これがまったくの妄想だとしても、何かしら得るものはありそうな・・?

ちょっと実験してみたいです
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内界と外界

自分にとっての

外界と、内界

それは大きな区別だ~

でも不思議だな

自分の内は見えなくて
自分の外だけが見える

外は近くが良く見えるけど、外の外側は宇宙の果てで見ることはできない
しかし内界は外側だけが見えて、その中が見えないの

なぞなぞみたいですよね

とゆーか・・
これはほんと~~うに、
なぞなぞなのではないかな?

離れて存在すること

星と星の間隔には節度があるような気がする

人と人の間にも、いくら親しくとも距離感がないと
気持ち悪い関係性になってしまうように思う

先日テレビで月が出来たときのシュミレーション画像というのを見た

地球にぶつかった小さな星か隕石?かが
砕け散って地球のまわりを回っていたが
小さなかけらがだんだんくっついていって
しまいにはひとつにまとまり
今の月になったという画像でした

存在するものは重力?で引っ張り合って
近いものはどんどんくっつきあっていく

その、存在するものどうしの関係性に驚いた

人間関係も似ている気がする

近づきすぎて、相手と自分の区別が無くなるのはどうかと思う
もし相手を尊敬しつつ大切にするなら
ある程度の距離感が必要なのではないか?

宇宙の星たちはとても離れていて
密度が低くて
何か寂しい気がするけど
独立していることは美しいことだと思う

独りでいることに耐えられないからと
くっつきあうのではなくて
本当に敬うことの出来る距離感を
大切にしたい気がするし

それに耐えることが出来る自分を
ちゃんと持っていなくては、相手に失礼なのではないかと思う

あらためて、宇宙の姿は、いろいろなことを教えてくれているのだと思った

私はエリヤだと思ったのかもしれない

パウロ・コエーリョさんという方の小説にはまったときがあって
彼はクリスチャンで、キリスト教的な話が多かった
その中で「第五の山」という小説があります
預言者エリヤが主人公です

どうしてかわからないのですが
このエリヤという人が大好きです

どうしてエリヤが好きなのか知りたくなって
エリヤのことを少し調べてみたらわかった気がしました

笑ってしまうような話ですが
自分では自分のことエリヤに重ねて考えていたのかもしれないです

本を読むときは主人公と自分を重ねることはよくあると思いますが
特別思い入れがあるときには、自分のカタルシスみたいな
普段自分が思っている意外な自分像みたいなのが
そういうことから見えてきて、面白いと思いました

でもそれならシュタイナーを好むことにも、それは言えている

一部の者だけが理解するものの元に生きて
まわりの理解の無さに苦労していく人

何したいんだ~自分~!?って
そんなヒーロー気取り!
だからこういう現実を迎えているのだと

それなら、もういいかげん味わっているから
少し違った展開が欲しいし

よくよく自分を見つめてみたいです

いろいろな待ち時間に本を読むのはとても嬉しいことです
かばんに一冊入ってさえいれば
どんな場所からもその作家の世界に行けるのです!

いろいろな場所で本に没頭していると
それを見た人から何か言われることがあります

先日は、子供のバレー部の他の部員のお父さんから
「僕は自分が一番と思っているから本は読まない」と言われました
その方は旅行が大好きなのだそうです
自分が行って体験するほうがいいということで
そういうことは他の方からも言われたことがあります

それで少し考えてみたのは、私は作家を崇拝しているから
本を読んでいるのか?ということです

思いついたのは、本を読むことは旅と変わらないということです
その人の精神の場所を旅する
その風景を楽しむ
その主体は自分です
見聞したものを自分の経験とし糧とする

シュタイナーのように、作家の見た世界を理解するのに努力を要する場合もあります
それは、例えば高い山を登るように修練を必要とする場所への旅行みたいです

バイブルのように不思議な鍵がないと開かない扉のようなページとか・・・
その鍵はどこにあるのでしょう?自分の心の中かな?
もし鍵を開けることが出来れば、自分の生きている世界までもが
どんでん返しするような、そんな不思議な場所に入っていくことが出来るのかもしれません

本当にわくわくする、楽しい読書の世界
精神の世界の地図を自分の心に描きたいな
行ったことのない国への旅をたくさんして
というか、自分の心に、その世界を存在させられるのかもしれないから
本当に面白いことです

ちなみに、秘境の探検隊・・それが神秘学徒・・かな?



プロフィール

hasutama

Author:hasutama
神秘学徒hasutamaです・・なんてほんとうは、ただのおばさんです
シュタイナーの著作を読むこと、愛犬をかわいがること、音楽にかかわること、お庭仕事、友人とカフェでおしゃべりすることなどを楽しんでいます

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