認識のさんぽ道

ルドルフ・シュタイナーの著作を楽しみ、 認識の小道散策へ出掛けます
TOP ≫ CATEGORY ≫ 声楽
CATEGORY ≫ 声楽
       次ページ ≫

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
スポンサー広告 | Comments (-) | Trackbacks (-)

「くるみの木」 シューマン

声楽で、次のドイツリートが決まりました
くるみの花々に見守られながら
やわらかい風に包まれてまどろむ少女のための
優しくかわいい曲です




くるみの木

家の前に一本のくるみの木が繁っている、
良い香りで
爽やかに
葉のついた枝を広げている。

たくさんのかわいらしい花が咲き出でて、
穏やかな
風が吹いては
それを優しく包み込んでいる。

花々は二つずつ対になってささやき合い、
頭を傾げ
身を屈めて
愛らしく優雅に口づけをを交わしている。

花々がささやくのは一人の少女の事、
彼女は想いにふける、
夜も
昼も、ああ 自分でもそれが何なのかわからない。

花々はささやく-でも誰が気づくだろう?
こんな小さな
声に-
ささやいているのは花嫁の事、未来の事。

少女は耳を傾け、木はざわめき、
見つめ
思いをはせ
微笑みながら眠りと夢の中に沈んでいく。



スポンサーサイト

憧れの力

次のイタリア古典歌曲は
「おお、私の優しい熱情が」になりました
またまた、すごい題名です

色々な動画を聞きましたが
この方の声が、とても素敵だと思いました
(音が高いとビリビリして・・音質は良くないです)




ああ私がやさしく熱く憧れる人よ、
あなたの呼吸する空気を、私はついに吸えるのだ。

私がどこに目を向けても
愛は、あなたの美しい姿を私の中に描き出す。

私の想いは、みずからにこの上なく喜ばしい希望を創りだす。

そして私の胸をこのように満たす希求のうちに
私は貴女をさがし、貴女を呼び、希望を抱き溜め息をつく。


はーそうですか・・っと
はじめに歌詞を見たときは
まるでストーカー状態の
この人の熱情に、かなりひいてしまいました

ま、しかし、
今自分は・・
自分こそが、憧れの力を必要としているのではないかと思います
自分だけの、ひそかな憧れであったとしても
それをここまで堂々と肯定し、歌にまでしてしまうなんて

もしかしたら、これこそ、
今の自分にとって
必要な力を与えてくれるものかも?

これは、イタリア人が能天気で色恋沙汰が好きという
ただそれだけのことではないのかもしれない!

今の時代の人にとってはバカバカしいほどの
一途な想念の強さをたたえ、浸りきって、共有しあう・・
ここに、自称神秘学徒として
この歌にめぐり合った意味を
発見するべきなのかもしれません!

そーか!そういうことなら、私が尊敬するあの方が
なぜすごいのか?ということにも
同じ答えが見つかりそう

その方というのは
唐突ですが・・
柿本人麻呂様です

実は先日、鈴木大拙さんの書かれた
「日本的霊性」について
ネットを見ていたら
こんなことが書かれていました

「霊性という文字はあまり使われていないようだが、
これには精神とか、また普通に言う「心」の中に包み
きれないものを含ませたいというのが、予の希望なの
である。

なにか二つのものを包んで、二つのものがつまるところ
二つでもなくて一つであり、また一つであってそのまま
二つであるということを見るものがなくてはならぬ。
これが霊性である。

霊性を宗教意識と言ってよい。
ただ宗教と言うと、普通一般には誤解を生じ易いので
宗教意識と言わずに霊性というのである。」


↑この中で、二つのものがそのまま一つでありながら
二つであることが霊性・・というところ
シュタイナーの「自由の哲学」で言われている
主題と同じじゃないかしら?面白いです

普通に言う、「心」のなかに包みきれないものも
その中に含ませたい・・というところにも
共通しているところがあります
大拙さんはそれを希望しているということですが
シュタイナーの場合には、それを現実だと言って
細かく解説し始めます・・

「精神には倫理性があるが、霊性はそれを超越している。
超越は否定の義ではない。
精神は分別意識を基礎としているが、霊性は無分別智
である。」


ふむふむ
無分別知ね

だからhasutama説による
個我にいきなり霊性が作用しやすい日本人は
思考力による論理性とか、精神による倫理性を
すっ飛ばしてしまって
無分別に突き進んでしまうこわさがあるのかも?

「精神の意志力は、霊性に裏付けられていることによって
初めて自我を超越したものになる。
いわゆる精神力なるものだけでは、その中に不純なもの、
即ち自我(いろいろの形態をとる自我)の残滓がある。
これがある限り「和を以て貴しとなす」の真義に徹し
能わぬのである。」


ここのところは、個人的にはあまり同意できないところです
自我を整え成熟させることによって
それぞれの違いを生かしながら
和に至ろうとするのではなく
実のところ自我を幼いまま残しているのに
不純と言って切り捨てたつもりになり、
霊性に裏付けられて自我を超越してしまった
精神の意志力があるから大丈夫
そしていきなり「和」と来るのは
ごまかしなのでは?と、思ってしまいます

↓万葉集のこと

「この本は・・・・
・・・
生まれながらの人間の情緒そのままで、まだ
これがひとたびも試練を経過していない。
全く嬰孩性(えいがいせい)を脱却せぬと
言ってよい。
・・・・
(男女の恋歌に関して)恋愛そのものからくる
悲苦につきての反省・思索などいうものは、集中
どの作にも見えない。子供らしい自然愛の境地を
出ていない。・・・これには成熟した頭脳がなく
てはならぬ。
人間は何かに不平・失望・苦悶などいうことに際
会すると、宗教にまで進み得ない場合には、酒に
ひたるものである。・・・或る意味で酒に宗教味が
ある。ところが古代人の日本人には、こんな意味の
酒飲みはいなかったようである。
・・・
「万葉」の歌人は宗教的な深さを示さぬ。
・・・
万葉歌人には、人間の心の深き動きにふれている
ものがないと言ってよい。」


ここのところも、納得いかないです
私的には万葉の人の想念の強さそのものが
霊性につながるもの、
霊性と言ってもいいのではないかと感じます
少なくとも、それよりもっと前の時代の人の
霊性を引き継いでいるから
そこまで想念を強く持てたのではないかと
万葉の人たちを尊敬したい気持ちです

大拙さんの言うことは矛盾していると思います
万葉の人たちの無分別知は
人を想う気持ちが自分の身体を超え出でて
宇宙的な霊的振動にまで達しているのであって
(これhasutama説
酒でごまかすとか、不平不満を反省、思索するとか
宗教的な解説なんて必要としていないほどに
すごいものなのです
大拙さん自身が
「精神は分別意識を基礎としているが、霊性は無分別智」
そう言っているのに、万葉の人たちが
頭が弱いみたいな言い方は残念です

かえって、宗教という枠でくくられた後の霊性というのは
個人的な霊的能動性、主体性、独立性が少なくなり
宗教的な偉人を奉り、形式を踏襲し
受動的なものになってしまったのではないでしょうか
そのかわりに、
個々の人間の人生の出会いや思い、
その脈絡から浮かび上がる深い意味合いに対して
下らないものと判断してしまっているのでは?
(まったく、そーゆーオジサン的な発想が
 今日の日本の状況を招いているのよね)

でも大拙さんの本を全部きちんと読んではいないので
これは部分的な感想です
また図書館で借りて、読んでみようかな

私はきっと、個人的に
宗教的な霊性よりも
呪術的?シャーマン的な霊性が好きだから
そう感じるのかもしれません
そもそも、霊性=宗教意識と言えるのかな?と思います
霊性は宗教意識を含んでいるでしょうが
もっと根源的なもの、ひとつの現実的世界でさえあって
万葉の人たちは、宗教を介在しなくても
その世界で呼吸する人たちだったのではないかと思います

そんなわけで・・(わけ長っ
柿本人麻呂さんの歌を味わってみると
たいへん強い想念の力を感じ
彼はシャーマンなのではないかしら?と思い
とても惹かれます

話はうだうだと、超長くなりました
とにかく!
このイタリア歌曲を歌うことで
私の心にも、熱情と言えるほどの憧れの力が
沸いてくるよう、頑張ってみまーす













歌を歌う、私ではない私のこと

水曜日は歌のレッスンだった

この時期、いろいろ忙しいのと
震災や原発のことで
いや、それだけじゃないかもしれないけど

ほんとに、どーうしても!音を出したり声を出したり
リズムに乗ったりする気には、全然なれなくて
本のページが、鉄の扉のように重くなったため
まったく楽譜を開けないまま、次のレッスンに行くことに・・

このところ、うつ傾向で
服一枚着るのもため息まじり
すごく近いのに10分も遅刻して
息も絶え絶え(嘘)やっと先生の家にたどり着いた

もう、声なんか出せないに違いない
脳の芯が、ジーンと麻痺しているようで重いのだし!

ところが
声を出している感覚も無いくらい、頭はぼんやりしているのに
声は、さらりと出てしまった
リズムにのってちゃんと歌ってしまう
いつもより調子がいいくらい

なんでなの?

脳なんて無いほうが、歌はちゃんと歌えるの?
考える機能が停止して
変なところに意識が行かなくなるから?

体め、私を裏切る気か?

私の知らない私が、歌を歌い
そして私ではない私の、歌う歌の
リズムや、メロディや、和音の連なりが、
私を穏やかに整え
心を通じて、どんよりとした血の中に 
晴れやかさや、生きる意志を注ぎ込んでくれた

シュタイナーが、人間の音楽体験について述べていたことを思い出した

原発や震災のことが、普段の生活を機能不全に陥らせ
しかしその中で、普段気が付かなかった本質的なことを
発見する機会を提供してくれているとして・・

同じように、私の中の機能不全が
私を生かしている本質的なものを、知らせてくれるのだろうか?

シュタイナーの人間と音楽についての講義を、もう一度復習してみることにした

[PDF] シュタイナー学校における音楽教育に関する一考察
  柴 山 英 樹 (日本大学大学院)


シュタイナー講義 「人間の音の体験」


 





声楽の、存在の?・・悩み事

先日の歌のレッスンで、先生に相談してみました

「音を出す」「言葉を一音ずつ響きにする」それを自分がすることに
すごく違和感があることについて

こういうこと言うなんて、ほんとは全然ありえないです
私は、まったく音楽的な素養が無いおばさんなのに
若い作曲家氏のピアノ伴奏で、素晴らしい先生のお声を間近に聞きつつ
とても情熱的、かつ優しく丁寧なご指導をいただいているのですから
これ以上のことは望めない、贅沢すぎる状況です

それなのに今さら、音を出すのに抵抗があるだと!?
自分のことながら、そりゃないだろ!的な・・
出来ないからって、努力しないのの言い訳に違いない

多分言い訳なのですよね

それで言い訳ついでに、自分の成育歴を振り返ってみて
核家族、一人っ子、引越し続き、親が仕事でいないとかいても忙しいとか、
そこで、ひとりで家で本を読む・・
何かさびしいイメージがあるかもしれませんが、それが普通だとあまり気にならないものです
別に親に愛されていないとか、そういうことではないのですよ

でも、こういう環境は、何かの世界に入り込みやすく
現実のほうに親しみが少なくなってしまいやすいのではないかと思います
シュタイナーが、ニーチェのアストラル体が空中にあったというのも
なんだかすごくイメージわきます
そういう意味で考えるなら・・
何がどうなっていたのかわからないけど
自分が、本当の意味でちゃんと地上に存在できるようになったのは
けっこう最近ではないか?と思っています

存在する、させるって、すぐには出来ないこと・・
いったいこれどういうことなのだろう??

そこまで抽象的なことは話していませんが
そんなことちらっと話したら、
それすごく分かる気がするって先生が言ってくださいました

ただ、ついでにエピソードとして話されたお友達の話は
優等生タイプだったのにリストカットを繰り返して
今は教会で賛美歌に癒されていらっしゃるというもので・・

うむ・・いや私はそこまで悲劇的なことを言いたいわけではなく
ただそういうあり方にはそれなりな、理由や必然性があって
積極的な意味だってあるのかもしれないけど
そこに、自分が音を出すことに、うまく繋がらない何かの要素があり
それが何なのか?ということに、私は興味があるということで・・

食べることも楽しいけど、おいしいけど苦痛・・みたいに
歌うことも、嬉しくて楽しいけど苦痛・・な部分がある

存在することとか、させることの苦痛・・
言ってみれば、このがさつさやうるささ・・
音そのものと言うよりも、その余韻が空気の中に漂っていく行く末
その染み入ってゆく気配をこそ、私は愛しているというのに・・

でもそこで負けててはいけなくて、それを美しく
より精神的にしていく・・べきなのか・・

なんて、音を出す努力をしたくない理由を、理屈を付けて大げさにしてしまいました
だって、もう、ほんとにうるさいんですよ、頭蓋骨に音が響くって~
まるで、仏壇の前のあのチ―ンとなるやつを、頭の中でどんどん鳴らしているみたいです
きっと、まだまだ修行が足りていないからなのでしょうね・・

先生がご自分の生い立ちを話してくださいました
いつもいつも音楽が大好きなご家族で
だれかが歌うとすぐにピアノやバンジョーやいっぱい集まってくるような
先生は一人ぼっちでいるときも、ひとり言まで歌って踊りをつけてみたり
そんな、まるでミュージカル家族だったというお話でした

だから先生にとって音楽はすごく自然なものなのですね

そして先生にとっては、一生懸命歌を洗練させていくことが
ごく自然に、生きがい、生きる喜びへと直結している
ご自宅にある、音楽を愛していらしたおばあ様から受け継いだピアノで伴奏しつつ
歌うことは家族的な、血の中で感じることも出来るような楽しさなのですね

でも、だからといって自分の生い立ちに意味が無いとは思わないというか
私には私の、必然性があるのではないかと思うし
それを大切にしながら、いったいどこまでチャレンジできるのか・・
また、そうすべきなのかどうか?
でも・・そんなふうに、めんどくさくしないと取り組めないということ自体が
先生にとって、私が音楽と距離を持っていることと思われるだろうしな~

だったら、私はもっと自分が自然と行えて、
努力することが、生きがいに直結することをしたほうがいいのではないか?
私自身は、いったいどんな積極的な価値を受けついだのか?
あるいは、もっと言えば、どんなことを行うべきカルマを持っているのか?
そして、何故今音楽的な出会いを持ったのか?

このことを意識しつつ、しかしとりあえずなるべく無心に・・
頭蓋骨に音を響かせてみます




音楽が宇宙を秩序立てる?



次のイタリア古典歌曲は「陽はすでにガンジス川から」(たいそうな題名です・・

17世紀のイタリアの人は、太陽はガンジス川から昇ると思っていたそうです

変イ長調で、輝かしく歌います

陽の光が、ガンジス川から輝いて
暁の涙の雫を、すっかりぬぐい去り
金色の光で、全ての草木を飾り
大空の星々を、野に描き出す

こーゆう、ちょっと馬鹿みたいな明るさは
あまり現代的ではないな~
それとも、日本的にはなじみが無いというか・・
でも、私としては、なぜかすごく共感できます
この、陽の光の力に、作詞者は畏敬の念を感じた・・と言うより
もう、われを忘れれて、うっとりとしてしまったに違いないなー

これは、単に陽の光について言っていながら
陽の光に象徴されるものを表現していると思ってみると
神秘学徒としても、歌いがいがあります

陽の光があたることによって
この野にも、大空の星々が
浮かび上がる
その嬉しさ

草の一本一本に、光が浸透するとき
大地が、まるで星々の輝きとなる
薄明の、涙の雫、悲しみは、全てぬぐい去られるのですから
すごく喜ばしいわけで

超しつこい繰り返し
速いテンポ
もう、はしゃぎまくっていますね
よかったね~って
なんだかかわいくなってきます
共感を得にくいかとは思いますが・・

この歌手の方の、徐々に盛り上がっていく不思議な声の響きとともに
頭の中が、ぐるぐると渦巻いて
だんだんに恍惚と、音の世界へ運ばれていきます
歌手の方自身も、自分の声にラリってる感じですし

音楽は、宇宙を秩序立てるものという
たしかシュタイナーがそう言っていたことが
実感される気がします
「宇宙の音楽」というものが、いつも流れているのだとか・・?

もし私が、音楽によって自分の内宇宙を秩序立てることが出来たら
そして、その秩序に沿って音楽することが出来たら
私の表現した音楽は、世界を秩序立てることが出来るだろう

不遜な考えに聞こえてしまうかな

そんなことを今日は、歌の練習をしながら考えました




プロフィール

hasutama

Author:hasutama
神秘学徒hasutamaです・・なんてほんとうは、ただのおばさんです
シュタイナーの著作を読むこと、愛犬をかわいがること、音楽にかかわること、お庭仕事、友人とカフェでおしゃべりすることなどを楽しんでいます

FC2カウンター
FC2カウンター
現在の閲覧者数:
Powered
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。